illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

『新潮45』2018年8月号杉田水脈「『LGBT』支援の度が過ぎる」精読(02)

前回の記事で、私は杉田水脈さんが数値の杜撰な取り扱いと印象論から持論を始めようとしていることを説明しました。

『新潮45』2018年8月号杉田水脈「『LGBT』支援の度が過ぎる」精読(01) - illegal function call in 1980s

お断りしておきますが、私は―極論ではありますが―政治家は数値をおろそかにしても、印象論から入っても構わない職業だと思っています。その思想が社会のよき転轍になるのであれば一向に。問われるべきは杉田さんの思想です。

引用します。

しかし、LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとってそれも同じではないでしょうか。

掲題書P.58

論点は大きく3つと思われます。

  1. LGBTの方々が実際にどれだけ差別されているか。これは実感ではなく専門家にある程度までの下地を委ねるべきです。少なくとも杉田さんはこの分野のプロフェッショナルでありません。
  2. 論理の骨子が「実際(世間)」→「私自身」→「職場」→「多くの人」という捻じれを持っています。杉田さんがどう考えるか、どう行うかと、LGBTの現状、問題は分けて論じられなければなりません。
  3. のちに出てくる生産性に関して、LGBTとは別に、杉田さんは差別的な視点を持っていることがわかります。職場で仕事ができる、できないで、問題なし、ありを分けていることを宣言していらっしゃる。

余談ですが、私は思想左翼=投票左翼、心情右翼を自認しております。中野重治に激しい同感を覚え、福田恒存は祖父を思うように私淑しています。一方でそれらへの戒めとして、大学以来、丸山真男から軸足を外すことのないように努めてもきました。その立場で申せば、保守(素朴な生活実感派)には、杉田さんのような危うさ、杉田さんのような思想的「おまんこ野郎」(1性に2性をもたせた、生産性を好む杉田さんが喜んでくれるに違いない巧みなネーミング、敬称です。お納めください)を許容、包摂してしまう微妙なロジックがあることは認めなくてはなりません。「私はこう思うの。あなたもそうでしょう。世間も」あるいは「実際はそんなことないわよね」。福田恒存には、そうした素朴な生活実感にも、警戒を怠らない用心深さがありました。保守、あるいは右から、そうした警戒が薄らいだのは、これはいつごろからだったのでしょうか。

引用を続けます。

そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます。

前掲書P.58

いちおう、論点を刻んでおきます。

  1. 杉田さんは近代のターム「非国民」を、歴史或いは現代一般に敷衍していらっしゃいます。裏を返せば、杉田さんは深層心理においてLGBTの方々を非国民と感じていらっしゃる部分があることの証左です。
  2. また、「歴史を紐解いても」と仰いますが、参考文献が記されていません。引用もありません。杉田さんは歴史学を専攻された方でしょうか。
  3. キリスト教に関しては、私は棄教者ではありますが、一応はそのような(禁止と白い目と迫害)の歴史は認めます。歴史学も専攻しました。一方で、近年はそこに寛容さが導入されていることもまた事実です(大人になって、マリア幼稚園のシスターから日曜教室で習いました。教えを離れた僕のことをシスターは受け入れて下さった)。
  4. イスラム教のことは語れません。
  5. ちなみに、日本で肛門性交に刑罰が科されたのは1872年から1882年までの間でした。中学校の歴史でみなさんが習った通りです。それこそ歴史を顧みて、それ以外の時期は、こと男性同性愛に関して、日本の文化と結びついた、比較的寛容な一潮流があったことは認めてもよいでしょう。但し、それはゲイという言葉遣いにおいてではなかった。現代のLGBTの観念、視線でもって、日本の歴史を眺めるには、よほど慎重な姿勢が必要でしょう。

(これは余談ですが、杉田さんのこの部分は、歴史修正主義の発想のプロトタイプが顕著にあらわれている点でも興味深いです。)

*

さて、「寛容な社会であった」ことを認めることと、当事者の生き難さは別軸の話です。杉田さんは、この段落の少しあとで「寛容な社会であったことが窺える」「にもかかわらず当事者が生きづらさを感じるのは、自分たちの親が理解してくれないことのほう(にある/がつらい)」という論理展開を行います。そこから「だから制度を変えても生きづらさはどうにもならない」と話を運ばれます。

そうでしょうか。今回はこれくらいにします。また明日、続きを書きます。

*

追記:

id:north_god さん、ブコメありがとうございました。まさにその「寛容=不寛容」の思想的実質が問われるべきと考えています。明日以降、言及することになろうかと思います。

『新潮45』2018年8月号杉田水脈「『LGBT』支援の度が過ぎる」精読(01)

福田恆存論から、はあちゅう方面を斬るとかいろいろやらなくてはならないことがあるのですが、いったん筆を擱いて、『新潮45』2018年8月号に掲載された杉田水脈「『LGBT』支援の度が過ぎる」を精読していきます。

*

まず初めに、これから行う批判にとって不利な点から申し上げます。『新潮45』本号は、「日本を不幸にする『朝日新聞』」と特集の銘を打っています。杉田論文もこの大枠に沿って語られることだということには、批判側も、擁護側も、前提しておいてください。

では冒頭から引用を始めます。

この1年間で「LGBT」(L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシャル、T=トランスジェンダー)がどれだけ報道されてきたのか。新聞検索で調べてみますと、朝日新聞が260件、読売新聞が159件、毎日新聞が300件、産経新聞が73件ありました(7月8日現在)。キーワード検索ですから、その全てがLGBTの詳しい報道ではないにしても、おおよその傾向が分かるのではないでしょうか。

新潮45』前掲書P.57

「およその傾向」と予断を含めてしまうより先に、次のグラフのこと、つまり新聞名と報道件数の関係を見ておきましょう。グラフは私が作成したものです。

f:id:cj3029412:20180722212819p:plain

形式的なことですが、まず、

  • 「この1年間」が具体的に何年何月何日から何年何月何日までかが記されていません。
  • LGBT」で検索を行ったという「新聞検索」の具体的な手続きが記されていません(もし、LGBTというキーワードが1回以上用いられた記事の件数であればそう記すべきです)。

引用を続けます。

朝日新聞毎日新聞といったリベラルなメディアは「LGBT」の権利を認め、彼らを支援する動きを報道することが好きなようですが、違和感を覚えざるをえません。発行部数から行ったら、朝日新聞の大きさは否めないでしょう。

独断と印象論への誘導です。

  • 何をもってリベラルとするのか。また、朝日新聞毎日新聞がリベラルに含まれるとする理由が何か。記されていません。
  • 「『LGBT』の権利を認め、彼らを支援する動きを報道することが好きなようです」と仰っていますが、何をもってそう認定されるのか、記されていません。また、ひとつ上に引用した部分では杉田さんご自身、記事の内容に触れていません。
  • 報道件数が多いから、よりリベラルなのでしょうか。いちおうは認めるにせよ、もしそうなら、朝日よりも毎日のほうが(本件からは)よりリベラルということにもなります。

発行部数と報道件数を掛け合わせたグラフを作成してみました。

f:id:cj3029412:20180722214319p:plain

発行部数は読売:

メディアデータ | 読売新聞広告局ポータルサイト adv.yomiuri

を参考にしました。上グラフ、下表とも同じ。

本来、発行部数は各社の言い分を比較したり、押し紙分を考慮したりと、手続きが必要ではありますが、ぱっと見、読売さんの値を使ってもよさそうとのざっくり判断です。

新聞名 報道件数 発行部数

部数×件数

(単位:万)

摘要
朝日新聞 260 6,113,315 158,946 全国版朝刊
読売新聞 159 8,732,514 138,847 全国版朝刊
毎日新聞 300 2,928,591 87,858 全国版朝刊
産経新聞 73 1,530,238 11,171 全国版朝刊
  • 杉田さんは「発行部数から行ったら、朝日新聞の影響の大きさは否めないでしょう」と仰っています。確かにそのとおりです。
  • けれど、読売の影響力(部数×件数)は朝日の87.4%(=138,847/158,946)です。互いによく牽制が効いているようにも見えます。

引用を続けます。

最近の報道の背後にうかがわれるのは、彼ら彼女らへの権利を守ることに加えて、LGBTへの差別をなくし、その生きづらさを解消してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方です。

  • ここも、印象論と、根拠のない論断です。

*

今回のまとめです。

杉田さんの今回の論文から以下が分かりました。

  1. 杉田さんが今回行った、報道件数を引用する手続きは杜撰なものである。
  2. 杉田さんは、「およその傾向」「リベラル」といった予断、印象論から本論に入ろうとしている。
  3. 数字からは、朝日新聞と読売新聞の影響力は比較的拮抗しており、朝日新聞だけを特に取り上げる理由が薄いようにも見える。
  4. 杉田さんは、「最近の報道の背後」をご自身が独自に「うかが」って、そこから本論に入ろうとしている。第2項にもいえることですが、具体的な内容、論拠が示されていない。

*

また、明日続けます。明日行う、次の引用箇所から、杉田さんの思想がより浮き彫りになってきます。

ダブルワークについて(2)

ちょっと、反響があったので参考までに。

2018年6月度実績:

  • 本業(商社管理職) ***円。高プロです。はっはっは。お察し下さい。ちなみに再婚のめどたちません。つらいです。けっこう楽しい\(^o^)/
  • 副業(1) 翻訳:48,000円
  • 副業(2) 家庭教師:28,000円×3件=84,000円
  • 副業(3) 執筆:30,000円

多少ぼかして書きましたけれど、副業合計:162,000円でした。こんなもんです。土日祝、帰宅後寝るまでほぼ自由なし(と、まではいかないけどね。まだやれるな)。好きなら続けられるかな。

船橋海神 黄金頭論集成(1)

黄金頭さんに言及した記事の代表的なものです。

dk4130523.hatenablog.com

dk4130523.hatenablog.com

dk4130523.hatenablog.com

dk4130523.hatenablog.com

*

以下は、黄金頭さん(志ん生)と、わたくし船橋海神(石田紋次郎)の関係を理解する一助になるはずです。石田紋次郎には、まだまだ、足りないな。トホホ…

dk4130523.hatenablog.com

dk4130523.hatenablog.com

dk4130523.hatenablog.com

精読: 福田恆存「性について」(01)

私淑する福田恆存の「性について」を引用していきます。そうとはいいませんが(おれが代わりに云ってしまっているけれど)、読めばよむほど、ああ、《あいつら》の含意かと、味わい深くご理解いただけるものになるはずです。ちなみに、長谷川京子、じゃない北条裕子「美しい顔」は、飽きたので放置。小説なんてそんなものですって。

*

福田恆存のことは、みなさんご存知ですよね。

いやだなあ、もう(泣)。

保守反動思想家に学ぶ本 (別冊宝島 47)

保守反動思想家に学ぶ本 (別冊宝島 47)

 

これ、読んでおいていただけますか。本書でサヨクのみなさんから絶大なる支持、評価を得ているのが福田恆存です。だから憧れたというのではなく、現代思想史や日本語を日本でやったら、ひとつの源流はここに行くわなという、鮭が遡行した。おれは右翼だったのか。マルキストだったと思って構造主義をかなりやったのだったが。

*

とにかく口語日本語がうまい。いくよ。含羞。自己韜晦。逡巡。そして刃が言の葉がきらりんと光る。おれの好みだ。男前だし。いくってば。

性について語るのはむずかしい。元来、それは語るべき筋あいのものではないからです。いまも、私はそれについてお話できる自信がありません。したがって、いろんな誤解を生むことでしょう。おそらく、そのことは避けられますまい。性の本質について、かんたんに説明できるはずのものではないので、ここでは、性にたいする現代の扱いかたについて、いくつかの疑問を提出しておくにとどめましょう。 

私の幸福論 (ちくま文庫)

私の幸福論 (ちくま文庫)

 

(引用 P.119)

『私の幸福論』本書は、昭和30年から31年にわたり、いまは亡き(!)講談社(!)というところから出された『若い女性』という雑誌に「幸福への手帖」というタイトルで連載されたものです。これが後に高木書房(1978-9年頃)から出され、それがさらにちくま文庫に入った。ちくまは98年に第一刷を出した。私が院で悶絶していたころです。福田は94年11月20日に亡くなっており、95年夏の山際さんの逝去とともに、個人史の上でたいへんショックな出来事だった。というのは、駒場の英語の授業で「老人と海」の購読をやった、新潮を買って、その解説の見事さ、まあ、いまにしてみたら薄いし批判すべき点もあろうことと思う、しかし、この人の語ることは確かだという匂いがふんだんにしました。92年の春だったか、牧野有通先生、どうでしたか。

私は図書館に籠もり福田の著したものは手当たり次第に読んだ。そうして、いずれ歴史的仮名遣いに引き寄せられるのだろうという予感が私を蝕んだ。

*

ですから(何だそりゃ藪から棒に)、福田が『私の幸福論』が現代のというとき、それは1955年ごろ、敗戦から10年、まだ怪しげな街角にはパンパンの残り香が漂っていた時分です。

  • まえがき
  • 1. 美醜について
  • 2. ふたたび美醜について
  • 3. 自我について
  • 4. 宿命について
  • 5. 自由について
  • 6. 青春について
  • 7. 教養について
  • 8. 職業について
  • 9. 「女らしさということ」
  • 10. 母性
  • 11. 性について
  • 12. ふたたび性について
  • 13. 恋愛について
  • 14. ふたたび恋愛について
  • 15. 結婚について
  • 16. 家庭の意義
  • 17. 快楽と幸福
  • あとがき

今日にその射程を伸ばさずにいられない青年期の課題がわんこそば大盛りてんこ盛り状態である諸君。そして、その思想的有効性をいまだ(初回連載時から60年が過ぎて)まったく失っていない。まったく、である。私は父が新左翼の活動家で火炎瓶作りの名人という負い目を背負ってこれまで生きて来ざるを得なかった。小猿。左にイカれていたころは、福田の主張は水に流れて過ぎ行くようで、これは思想といえるのか? と、つまり本棚のどこに置いておけばよかったか決めかねていた。それくらい私の思想や生活は脆弱だった。

ただ、言い訳を許してもらえるのであれば、私は福田を感性や思想の軸から外したことはいちどもなかった。だっておもしろいんだもん。言葉遣いが美しいし。

*

今日、若い人々のあいだでは、「性の解放」というようなことが、こともなげに語られています。語られているばかりか、ときには実行されてもいるようです。そして、その実行者が英雄視される傾向さえあります。すくなくとも、頭のなかでは、性はなんらの罪悪ではなく、罪悪でないものにこだわって、「処女」とか「童貞」とかいうものを守ろうとするのは愚劣だという考えが、かなり普遍的になっているらしい。そういうこだわりは、昔流の観念におびやかされている臆病者の証拠だというのです。なるほど、そういうばあいもたくさんありますし、いちおうそう反省してみるのもいいことです。だが、性的に自由であり放縦であることが、ただちに英雄的であるかどうか、それははなはだ疑わしい。ことに日本人のばあい、それだけで勇気や独立のあかしとはいえないのではないか。

なぜなら、封建時代の日本には、もともと性を罪悪とみなす思想がなかったからです。

(P.119-120)

ここは、一例として、蛮勇はあちゅうをぶっ叩く(その気も起きないが)「保守棒」(いやーん)になるのはもちろん、MeeTooと日本人の関わり方にも、あれ(はあちゅう、山口敬之、別の山口…)でよかったのかという振り返りを促す序曲として響く箇所と読むこともできる。そっから先は、おれはいわないけどね。

*

ではこんな感じで、大先生の言に耳を傾けようではありませぬか。

第2回に乞うご期待!

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000024677-00

「同情するなら金をくれ」の射程

大変に興味深いツイートを目にしました。

思い出したのは「家なき子 (1994年のテレビドラマ) 」の名科白のことです。

www.youtube.com

この保阪尚希は、保阪尚希史上ベストともいうべきいい男っぷりで、私は「愛していると言ってくれ」(95年のテレビドラマ)を最後に日本の連続テレビ(小説)というものは見ていないと度々公言しております、「家なき子」だってろくに見ていない。けれどこの保阪尚希はいい。豊川悦司とどっちがいいだろう。

それでお題ですが構造は戦時中と瓜二つです。

  • 銃後(気持ち)-兵站/メディア-前線の兵士
  • not被災地(気持ち)-物流網/メディア-被災地

なら同情するなら金を送ればいいのか。

Yesです。

  • not被災地(気持ち→金銭)-(信頼できる)募金網/メディア-被災地

Yesであると同時にここには抜け道がある。

  • not被災地(気持ち→馳せ参じる)-(信頼できる)現地受け入れ口-被災地

労働力を供出する代わりに金銭を募金によって提供する。その前に待てよと思う。だったら自らこの身体で働くほうが気持ちはより直接に届くのではないか?

やれとはいいません。そんな資格は少なくとも私にはない。私は自社の商流/物流を再構築するのに精一杯手一杯だ。

けれど忘れたくないことがあります。

わっと(id:watto)さんが何かの災害のときに腰を上げる姿を私は昨年57577に詠んで絵葉書をお送りしました。沢木耕太郎「檀」に次のフレーズがあります。

檀を思い出すとき、まず脳裡に浮かんでくるのは、何かがあるとパッと立ち上がる瞬間の檀の姿だ。そのかすかな激しさをはらんだ挙措が、まさにダン、檀だったのだ。

初夏、陽光がさんさんと降り注いでいるのに、なぜかサアッと涼しさが走ることがある。そんなとき、ふっと体にポルトガルがよぎる。

あなたにとって私とは何だったのか。私にとってあなたはすべてであったけれど。

だが、それも、答えは必要としない。

沢木耕太郎「檀」結びのページより。

檀 (新潮文庫)

檀 (新潮文庫)

 

私にとってわっとさんは静かに立ち上がるしいたけのイメージです。「同情するなら金をくれ」の、その前にあるはずの、たとえば遥か昔に「結(ゆい)」「もやい」といったような、人が何か手を差し伸べようとするときの、静かさ、優しさ、激しさのようなものがある。

ちなみにいえば共産党を含む既成政党はこのような「瞬間」を制度化する。それが党派性の命脈だからです。よってベトコンを自認する私自身は政治活動をしようとはつゆ思わない。しかし、だからといって、今また、こうした瞬間に、立ち上がるしいたけ先生に賛辞を送らなくていいことにはならない。

私はこれからも何度でも、その《瞬間》を目指して筆を執るだろう。どうか、お気をつけて。

ダブルワーク あるいは「芸は身を助く」について

当社(昼間勤務の商社)は、事実上の成約はあります(何かあれば当社業務を最優先としなくてはならない)が、制度面では副業を容認しています。

私は現在3つの副業に手を染めております。

  • 翻訳
  • 市場調査
  • 家庭教師

先日、予備校講師の口がかかりました。試験を受けました。高校生レベルの英語と古文です。どちらも満点でした。時給2,500円程度、前後の準備やフォロー時間にも事務手当が出ます。概ね8月下旬から、週2日4コマ程度入ってほしいといわれました。3つの副業でもそこそこの実入りになります。あ、仮想通貨も粘り強く掘ってたんだった。これに4つめ(予備校講師)が加わると、けっこうな年額になります。

市場調査を別にすれば、これらの副業の「元種」は、学生時代に習い覚えたものです。それがいまに生きています。ちなみに、執筆(ビジネス関連)のお声かかりも、たまにあります。ですが、これ(執筆)は、投資額も含めると最も割に合わない気がします。

(今回は、結論のない断章です。)

別段、自慢ではなくて、いちど身体を通したものは手放さない(手放したくない)。それをただ愚直に守ってきただけです。もっと、早くに、重い装備を手放して転身を図れたほうが、トータルでの実入りはよかっただろうと思います。したがって、私のような生き方はお勧めできません。