illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

精読: 福田恆存「性について」(01)

私淑する福田恆存の「性について」を引用していきます。そうとはいいませんが(おれが代わりに云ってしまっているけれど)、読めばよむほど、ああ、《あいつら》の含意かと、味わい深くご理解いただけるものになるはずです。ちなみに、長谷川京子、じゃない北条裕子「美しい顔」は、飽きたので放置。小説なんてそんなものですって。

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福田恆存のことは、みなさんご存知ですよね。

いやだなあ、もう(泣)。

保守反動思想家に学ぶ本 (別冊宝島 47)

保守反動思想家に学ぶ本 (別冊宝島 47)

 

これ、読んでおいていただけますか。本書でサヨクのみなさんから絶大なる支持、評価を得ているのが福田恆存です。だから憧れたというのではなく、現代思想史や日本語を日本でやったら、ひとつの源流はここに行くわなという、鮭が遡行した。おれは右翼だったのか。マルキストだったと思って構造主義をかなりやったのだったが。

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とにかく口語日本語がうまい。いくよ。含羞。自己韜晦。逡巡。そして刃が言の葉がきらりんと光る。おれの好みだ。男前だし。いくってば。

性について語るのはむずかしい。元来、それは語るべき筋あいのものではないからです。いまも、私はそれについてお話できる自信がありません。したがって、いろんな誤解を生むことでしょう。おそらく、そのことは避けられますまい。性の本質について、かんたんに説明できるはずのものではないので、ここでは、性にたいする現代の扱いかたについて、いくつかの疑問を提出しておくにとどめましょう。 

私の幸福論 (ちくま文庫)

私の幸福論 (ちくま文庫)

 

(引用 P.119)

『私の幸福論』本書は、昭和30年から31年にわたり、いまは亡き(!)講談社(!)というところから出された『若い女性』という雑誌に「幸福への手帖」というタイトルで連載されたものです。これが後に高木書房(1978-9年頃)から出され、それがさらにちくま文庫に入った。ちくまは98年に第一刷を出した。私が院で悶絶していたころです。福田は94年11月20日に亡くなっており、95年夏の山際さんの逝去とともに、個人史の上でたいへんショックな出来事だった。というのは、駒場の英語の授業で「老人と海」の購読をやった、新潮を買って、その解説の見事さ、まあ、いまにしてみたら薄いし批判すべき点もあろうことと思う、しかし、この人の語ることは確かだという匂いがふんだんにしました。92年の春だったか、牧野有通先生、どうでしたか。

私は図書館に籠もり福田の著したものは手当たり次第に読んだ。そうして、いずれ歴史的仮名遣いに引き寄せられるのだろうという予感が私を蝕んだ。

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ですから(何だそりゃ藪から棒に)、福田が『私の幸福論』が現代のというとき、それは1955年ごろ、敗戦から10年、まだ怪しげな街角にはパンパンの残り香が漂っていた時分です。

  • まえがき
  • 1. 美醜について
  • 2. ふたたび美醜について
  • 3. 自我について
  • 4. 宿命について
  • 5. 自由について
  • 6. 青春について
  • 7. 教養について
  • 8. 職業について
  • 9. 「女らしさということ」
  • 10. 母性
  • 11. 性について
  • 12. ふたたび性について
  • 13. 恋愛について
  • 14. ふたたび恋愛について
  • 15. 結婚について
  • 16. 家庭の意義
  • 17. 快楽と幸福
  • あとがき

今日にその射程を伸ばさずにいられない青年期の課題がわんこそば大盛りてんこ盛り状態である諸君。そして、その思想的有効性をいまだ(初回連載時から60年が過ぎて)まったく失っていない。まったく、である。私は父が新左翼の活動家で火炎瓶作りの名人という負い目を背負ってこれまで生きて来ざるを得なかった。小猿。左にイカれていたころは、福田の主張は水に流れて過ぎ行くようで、これは思想といえるのか? と、つまり本棚のどこに置いておけばよかったか決めかねていた。それくらい私の思想や生活は脆弱だった。

ただ、言い訳を許してもらえるのであれば、私は福田を感性や思想の軸から外したことはいちどもなかった。だっておもしろいんだもん。言葉遣いが美しいし。

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今日、若い人々のあいだでは、「性の解放」というようなことが、こともなげに語られています。語られているばかりか、ときには実行されてもいるようです。そして、その実行者が英雄視される傾向さえあります。すくなくとも、頭のなかでは、性はなんらの罪悪ではなく、罪悪でないものにこだわって、「処女」とか「童貞」とかいうものを守ろうとするのは愚劣だという考えが、かなり普遍的になっているらしい。そういうこだわりは、昔流の観念におびやかされている臆病者の証拠だというのです。なるほど、そういうばあいもたくさんありますし、いちおうそう反省してみるのもいいことです。だが、性的に自由であり放縦であることが、ただちに英雄的であるかどうか、それははなはだ疑わしい。ことに日本人のばあい、それだけで勇気や独立のあかしとはいえないのではないか。

なぜなら、封建時代の日本には、もともと性を罪悪とみなす思想がなかったからです。

(P.119-120)

ここは、一例として、蛮勇はあちゅうをぶっ叩く(その気も起きないが)「保守棒」(いやーん)になるのはもちろん、MeeTooと日本人の関わり方にも、あれ(はあちゅう、山口敬之、別の山口…)でよかったのかという振り返りを促す序曲として響く箇所と読むこともできる。そっから先は、おれはいわないけどね。

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ではこんな感じで、大先生の言に耳を傾けようではありませぬか。

第2回に乞うご期待!

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000024677-00