大変に興味深いツイートを目にしました。
日本人は、どうして屑を送ってしまうのか問題は根深い pic.twitter.com/1sHMQ0UFgc
— 寄星蟲 (@kisei64) July 16, 2018
思い出したのは「家なき子 (1994年のテレビドラマ) 」の名科白のことです。
この保阪尚希は、保阪尚希史上ベストともいうべきいい男っぷりで、私は「愛していると言ってくれ」(95年のテレビドラマ)を最後に日本の連続テレビ(小説)というものは見ていないと度々公言しております、「家なき子」だってろくに見ていない。けれどこの保阪尚希はいい。豊川悦司とどっちがいいだろう。
それでお題ですが構造は戦時中と瓜二つです。
- 銃後(気持ち)-兵站/メディア-前線の兵士
- not被災地(気持ち)-物流網/メディア-被災地
なら同情するなら金を送ればいいのか。
Yesです。
- not被災地(気持ち→金銭)-(信頼できる)募金網/メディア-被災地
Yesであると同時にここには抜け道がある。
- not被災地(気持ち→馳せ参じる)-(信頼できる)現地受け入れ口-被災地
労働力を供出する代わりに金銭を募金によって提供する。その前に待てよと思う。だったら自らこの身体で働くほうが気持ちはより直接に届くのではないか?
やれとはいいません。そんな資格は少なくとも私にはない。私は自社の商流/物流を再構築するのに精一杯手一杯だ。
けれど忘れたくないことがあります。
行ってきます! / “被災地への応援〜気をつける事と知る事 - happy-ok3の日記” https://t.co/qZKI8MeeZX
— しいたけ@しいたげられた (@wtnb4950) July 15, 2018
岡山駅なう。 pic.twitter.com/SbaPh3mAfH
— しいたけ@しいたげられた (@wtnb4950) July 15, 2018
新倉敷駅シャトルバス。 pic.twitter.com/4zDGE16LvY
— しいたけ@しいたげられた (@wtnb4950) July 16, 2018
わっと(id:watto)さんが何かの災害のときに腰を上げる姿を私は昨年57577に詠んで絵葉書をお送りしました。沢木耕太郎「檀」に次のフレーズがあります。
檀を思い出すとき、まず脳裡に浮かんでくるのは、何かがあるとパッと立ち上がる瞬間の檀の姿だ。そのかすかな激しさをはらんだ挙措が、まさにダン、檀だったのだ。
初夏、陽光がさんさんと降り注いでいるのに、なぜかサアッと涼しさが走ることがある。そんなとき、ふっと体にポルトガルがよぎる。
あなたにとって私とは何だったのか。私にとってあなたはすべてであったけれど。
だが、それも、答えは必要としない。
沢木耕太郎「檀」結びのページより。
私にとってわっとさんは静かに立ち上がるしいたけのイメージです。「同情するなら金をくれ」の、その前にあるはずの、たとえば遥か昔に「結(ゆい)」「もやい」といったような、人が何か手を差し伸べようとするときの、静かさ、優しさ、激しさのようなものがある。
ちなみにいえば共産党を含む既成政党はこのような「瞬間」を制度化する。それが党派性の命脈だからです。よってベトコンを自認する私自身は政治活動をしようとはつゆ思わない。しかし、だからといって、今また、こうした瞬間に、立ち上がるしいたけ先生に賛辞を送らなくていいことにはならない。
私はこれからも何度でも、その《瞬間》を目指して筆を執るだろう。どうか、お気をつけて。