illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

いつか、リングサイドで

昨夜(ゆうべ)、眠れずに、泣いていた。

はあちゅうの「通りすがりのあなた」を、好奇心から手にした俺が馬鹿だった。深く傷ついた。伊藤春香には、少なくとも近代日本正統の小説家たる資質は、まったく、何ひとつ、ない。押切もえのときにも深く傷ついて嘆息したのだけれど、はあちゅうからは、それを上回る痛手を受けた。そうはいっても何かしら、ひと櫛、ひと欠片、ひと滴、の可能性を著作から探ってやるのが礼儀と思い、彼女のアマゾン(ほぼ)全作品を注文した。

それが、これから1週間にわたって届く。届いたら、読んでしまうのだろう。

俺がこれまで、わるい女に騙されてきたときの、典型的なパターンだった。悪夢だ。泣きながら寝た。

*

山際淳司には、ボクシングの秀作が大きく3つあります。

時系列順に、まず、ひとつめが、春日井健を描いた「ザ・シティ・ボクサー」。ふたつめが、大橋克行(秀行会長ではない)を描いた「逃げろ、ボクサー」(これがいちばん有名かな)。そしてみっつめが、青木勝利を描いた「正方形の荒野」。 

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春日井健は1970年代半ばの、大橋克行はそれより数年後の、横浜、本牧あたりを「ワル」で鳴らした。恰好よくて、喧嘩が(めっぽう)強い。ほかに捌け口がなくて、やり場のない思いを僕たちが文学のほうに向けたのと同じように、彼らはボクシングへと向けた。山際さんは、横須賀の生まれ育ち。高校時代か、大学に入るあたりで、どうも神奈川横浜横須賀人脈の伝手もあったらしく、地元のアマチュア・アスリートへの取材を重ねていく。そうした中で形作られたのが「ザ・シティ・ボクサー」と「逃げろ、ボクサー」である。

だから僕には、本牧とか、山下公園だとかいう地名には、格別の思い入れがある。

*

黄金頭(id:goldhead)さんは、本格の(本格的な、ではない)私小説家であり、物語作家だ。物語作家の才能は「わいせつ石こうの村」のほうで、実にストイックに、伸び伸びと、放たれている。私小説家、エッセイストとしての顔は、「さて、帰るか」そして今回の記事のように、読書体験がそのままご自身の暮らしの描写やそこから来る熱量となって、表れてくるのが何といっても持ち味、切れ味だ。

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本物の、文章家だ。僕は「一瞬の夏」を、こう描ける書き手に出会ったことがない。僕のほかにいないだろうと思っていた。出川哲朗のくすぐりを入れるところなんて、さすがだ。さすがすぎる。

沢木耕太郎が乗り移って、寺山修司になっている。彼の才能を受け止めきれる雑誌、スポーツ紙は、しかし、この2010年代にはあるまい。70年代、80年代には、まだ辛うじて、存在していた。

*

黄金頭さんには、涙を乾かしてくれたお礼に、武相高校の話を1点だけしたい。

1968年、空前絶後の第4回プロ野球ドラフト会議でジャイアンツが指名したのが、武相高校の島野修だった。彼こそが、知る人は知るだろう、阪急「ブレービー」の中の人だった。そのブレービーは、鬼畜つばめ先生や、バック転するコアラのマーチ君の活躍のようなこともあって、彼らの元祖、のような形で言及される機会も増えた。

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そんなふうにして、いまでこそ、多くが知っている、しかし振り返ってみれば、80年代初頭、村田兆治落合博満山田久志今井雄太郎といったパ・リーグ名選手への取材をする中で、ブレービーを知り、彼に最初に光を当てたひとりが、実は山際淳司だった。

*

そうだ、お礼がもうひとつあった。

僕の、大橋克行/秀行会長方面への取材によると、井上尚弥がやはり「ピカイチ」らしい。克行さん(「逃げろ、ボクサー」)が、あるとき、僕に次のように話してくれた。

「うちのおやじとおふくろは、井上尚弥の試合は必ず見に行くんですよ。僕らのときは、そんなに来なかったのに(笑)。僕から見ても、彼、井上尚弥は《もの》が違います。怪物です。そしてその怪物度が、群を抜いている」

*

メジャー・シーンに受け入れられるまでには、まだ時間がかかるかも知れない。それでも、どう? こうしてみると、内藤律樹と井上尚弥の時代は、黄金頭さんと僕の時代でもあるような気がしてこない?

黄金頭さん、いつか、近い将来、リングサイドで――

通りすがりのあなた

通りすがりのあなた

 

 

ひやめし物語の件

山本周五郎のベスト作品は何か。

まず、一般に「樅の木」「さぶ」「赤ひげ」だろうか。もちろん、僕にとっては違うという話をするつもりで引いた。あれこれ考えて考えあぐねて、山際淳司作品と対比することにした。

  • 山際作品では(こうかな?):

 

一般的に

個人的に

1

江夏の21球

たった一人のオリンピック

2

スローカーブを、もう一球

一二月のエンブレム

3

たった一人のオリンピック

異邦人たちの天覧試合

  • 周五郎作品では(こうかな?):

 

一般的に

個人的に

1

樅の木は残った

青べか物語

2

さぶ

ひやめし物語

3

赤ひげ診療譚

赤ひげ診療譚

*

つまり、一般には挙がってこないかもしれない掌篇、しかし、そこに珠玉の味わいがあることをどうしても誰かに話したくなる作品というのが、ある。

「一二月のエンブレム」については、思い入れをこの記事に記した。

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山際淳司「一二月のエンブレム」と、周五郎作品の中で僕にとって同じ位置づけにあるのが、「ひやめし物語」である。(「艶書」、どうしましょう。)

大炊介始末 (新潮文庫)

大炊介始末 (新潮文庫)

 

「ひやめし物語」は、こいつに入ってる。

8年半前に、なぜだか僕と同じidでいいレビューを残してくれている若者がいる。引用する。

古いものは戦後まもない昭和22年から、昭和33年ごろまでに書かれた「山周武家物」を中心とした短篇集です。平安朝もの一篇「牛」が一風かわった趣向で、彩りをそえています。

さて、山本周五郎作品はどうもどことなく鼻について、というかたは本書の「ひやめし物語」「よじょう」だけでもおすすめします。基調が乾いた明るさだからです。情緒のほうにあまりいかない。

とくに「よじょう」は、そちらのほうにいちどは行くのかな? と思わせておいて、行かない。確かにこれは山本周五郎の転換というか芸域の拡大であるといえると思います。

「ひやめし物語」は、登場人物のおおらかな人柄が読み手の気持ちをきっとほぐしてくれるでしょう。昭和22年4月に発表されたこの作品は、敗戦からまさに立ち直ろうとする当時の読書人たちの感受性に、ある種の慈しみと滋養として働きかけたはずだと、そんなことを思ったりもします。

鼻につくなあ(笑)。ちがうんだよ、事情があるんだ。これ以上踏み込んで書くと、(当時のその若者にとっては)ネタばらしになってしまう(しまった)んだ。

それでも、だったらなおさら、筋書きを知りたい? OK, ちょっと長くて、野暮(親切)なんだけど、買い求める前に落ちを知ってそれから安心して、という方には次をお勧めする。

それで、実は、「ひやめし物語」の異曲が、冒頭、書いていて思わず言葉に詰まった、「艶書」です。very much good ですよ、本作。

艶書

艶書

 

あのね、…、あー、やめとく。いや、あー、あの、周五郎は初期作品というか、若い頃の貧乏暮しを、ずっと、貯めとくんだ。「青べか物語」(1960)でしょう? 「季節のない街」(1962)なんだよね。「樅の木」(1954-58)の後なんだ。これ、ずーっと、藤沢周平史観からすると、不思議に思っていて。

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周五郎は、初期作品が暗くない。「廣野の落日 」(1920)は読んでないか覚えてないかで分からない。「日本婦道記」は、暗い話じゃないよね。とすると、僕の仮説が誤りで、藤沢周平バイアスがかかっているか、周五郎が天才じゃないか、どちらかだ(んなこたあない)。

*

やめとく。周五郎作品をこれ以上汚したくない。よし、汚れは吾輩が引き受けよう。

周五郎の「美少女一番乗り」ご存じですか。

美少女一番乗り (角川文庫)

美少女一番乗り (角川文庫)

 

これは、非常にいいです。きれいな心の持ち主にしか、タイトルを越えて、読み進め、語ることがむつかしいという。それで唐突に話を戻して、「ひやめし」、最高です。僕は自分の書いた物語で鶴を折るシーンを入れた、そのときのリファレンスの筆頭が、周五郎の「ひやめし」でした。

たらたりと垂れたる思ひ出(いづ)の水

突然ですが、「たそかれ(黄昏)」と「かはたれ(彼は誰)」の違いは、お分かりになりますか。

(これは、朝、明け方のほうね)

いえ、ゆうべ営業で五木ひろしよこはま・たそがれ」の清水アキラ版の、ほんのさわりをやったら大受けに受けて、僕はほんとに淋しい熱帯魚だったわけです。あれ、山口洋子にはわるいのだけれど、字句解釈からは、実はあまりうまくない。歌詞の中身とも、矛盾すると言わざるを得ない。

*

品詞分解しましょうか。わびしい心持ちは、品詞分解によってのみ救われるものです。

  • た(代名詞。誰。不特定の人を指す。)
  • そ(終助詞。本来は文末に来るべきものだが倒置されている。意味は高校古文の説くいわゆる強意、よりも、大野晋の「新発見」「驚き」説を僕は採りたい)
  • かれ(代名詞。話し手から離れた、遠い物・事・時・人を指す。平安末期に「あれ」に取って代わられる)

その上で(工夫して)訳します。

「あら(=新発見+驚き)、あちらは、自分には判然としない・少なくとも親しくない方です(です/だ、の先祖が「ぞ」)」(岩波古語辞典P.801に曰く【うすぐらくなって人の顔が見分けにくい(略)】)

往来などで出くわして、対象が人という認識はある・識別はつく。そしてそれが知己(知り合い)なのかそうでないのかの区別もつく。そこまで。たそがれは、そういう時間帯として感受された。

*

「かはたれ」のほうも、品詞分解しましょうか。

  • か(代名詞。遠いものを指し示す。あれ、あの人)
  • は(係助詞。重要な特徴として、疑問詞を承けない。掲題・なぞかけ=続く・下の部分に、ほぼ必ず、答えを用意する。答えが省略されたときには、宙ぶらりんの感覚が残る。現代の「○○とは?」の「は」に近い)
  • たれ(不定称。だれ)

救われた気持ちになったので、訳します。

「あの方はどなた(なのかしら)?」(岩波古語辞典P.323に曰く【うす暗くて人の顔もおぼろにしか見えず、あれは誰、と見とがめる(略)】)転じて、明け方の声かけになったとかならないとか。

*

整理します。

語彙 試訳 訳注1 訳注2
たそかれ あら、あちらは、自分には判然としない方です。 そ(ぞ)→言い切り・強い認識 (次第に暗くなって、判然としにくくなりましたね)→夕暮れ
かはたれ あの方はどなた(なのかしら)? 疑問→問いかけ (まだ未明で暗いので、確かめが必要ね)→朝、明け方

僕は、こうだと思っています。そんなに、間違っていないんじゃないかな。

*

以上は、石塚修先生 (id:ichikanjin) が高校生向け古文入門の枕としてなさっていたことの敷衍です。もちろん、89年夏秋当時、高校1年生という(百人一首すら覚束ない)受講者層と、授業時間の兼ね合いから、ここまでは踏み込んでいらっしゃらなかったはず。

だからこそ、僕は、ずっとこのことを考え、整理し続けてきた。

それは、石塚先生曰く(意訳)、

「昔の日本人は、このような時間感覚の微妙な違いを、とても繊細な、語順と、わずかな助詞の用法によって、遣いわけていた。すばらしいじゃないですか。まん’によ’うしゅう」

賀茂真淵本居宣長が直接に会って話したのは、生涯にただ一度きりだったといいます。そこから宣長は、ちゃんとエッセンスを感じて、受け継いで、忘れないでいて、結実した。えらいなあ、おれ(笑)。

*

昨日かおとついか、英語の恩師K先生のことを記しました。

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それだけでは、ちょっと申し訳がたたないと思って。いま、ほんとに、精神も肉体もかつかつで、外貨を稼ぎ、お客様と部下のために、冒頭記したように、清水アキラを、内山田洋前川清(謎の7字熟語)を夜な夜なやるわけです。それで億円の契約を取る仕事です。

つらい。実につらい。あはれである。

しかし、けれど、どうして、かろうじて持ちこたえられているかといえば、それは、古文の種を仕込んでくださった、石塚先生のおかげというのが、多分にあります。どうしてみんな、ビジネスマンが数独には夢中になるのに、古文の品詞分解に夢中にならないのか、僕にはまったく訳がわからない。

*

というわけで、「横浜たそがれ」は、五木ひろしが、誰かわからない人と港近くのラブホテルに入り、一戦を交えた後で「あら、薄暗くなって見分けがつかない。誰かの残り香だけがあります」と嘆く歌ということになります。もしそうだとすれば、それはドラッグのやりすぎか、ラブホテルに入るつもりがピンサロだったか、赤線青線、という話です。「あの人は行って行ってしまった」。お客様はお帰りになったのですね。

*

(せっかくのいい話を)誠に(誠に)申し訳ございません。

*

石塚先生、その節は、ほんとうに、ほんとうにありがとうございました。お酒と落花生、明日2/4にも、つくばの研究室のほうに発送予定です。

(ちなみに、今回の記事のタイトルは、石塚先生(と、お弟子さん?)にのみ、お分かりいただける筆法にしたつもりです。下句、酒と呼ばずにいづみかは、なのでございます。)

どうぞ、ご研究の合間に、お納めください。


よこはま・たそがれ 五木ひろし

お土産屋「八汐」のこと

東武日光駅前に―日光には、宇都宮や鹿沼と同様にJRと東武の2つが少し離れた位置関係にある―「八汐」(やしお)という土産物屋さんがあって、その主(あるじ)はKさんという。T.K先生。確か昭和21年か22年のお生まれで、県内の進学校から東北大学(文学部哲学科だったかな)に進み、母校に戻って長く英語科の主任を務められた。

そのK先生のご実家が「八汐」だ。一時期は店を閉じられていたような記憶もあったが、きょう、企画会議で年上の副部長を叱責した悲しみにくれて、席に戻ってGoogle Mapを開き、懐かしい場所を開いて心を温めていた。2015年9月にはお店をなさっていたようだ。大学を出て(96年)から、数年にいちど、お店を訪ねて背後から英語で襲うことを僕は趣味のひとつにしていた。

“Excuse me, uh, could you recommend me some nice souvenir, if possible, specially made here in Nikko?”

“ん、どうしたんだ。Well, let me check around. So, また来てくれたのか。ようこそ”

*

とにかく、彼、K先生の英語はすごかった。構文解釈、レベルはいろいろあると思うが、こと東大二次試験の範囲までなら、every single word, どの一単語、どの成分をとっても受験に沿った正確な解釈とノウハウと豆知識を教えてくれた。ちなみに、古文で同じことを授けてくださったのが、石塚修先生(id:ichikanjin)である。おふたりとも、それぞれに達筆で、石塚先生は行書の味をいくぶん含んだ、(おそらく照れ隠しもあるだろう)金釘5%くらいの流麗な板書だとすれば、K先生の板書は筆記体も日本語も、現代文の先生よりも端正な、見事な、ほれぼれするような字だった。

*

高校2年の11月に―石塚先生はそのころすでに大学に戻られていて(と、四半世紀以上前の恨み節を忍ばせてみる。後でお酒をお送りしなければ)―、僕はふと思い立って東大を目指すことにした。それは、高校1年の初夏だったかな、石塚先生が「せっかく選ばれた人なら高い志を持ちなさい」と仰っていたことが思い起こされたから、というのが大きい。ちゃらちゃら、ちゃらちゃらしていたので、それでも、文系上位近くは維持しており、東北大か東京外大には行けるのでは、くらいにちゃらちゃらしていた。そりゃ行くなら女子学生比率の高い東京外大に決まっている。

それが、何だかばかばかしく思えてね。どうしたらいいのかわからなかった。

職員室にも教室にもストーブが置かれ始めるころ、朝、ポケットに手を突っ込んだままK先生を訪ねていった。

「あの、先生、真に受けられると困るんですけど、おれ、東大無理ですよね。あっはっは。忘れてください。寒いっすね」

「お、やる気を出したか。いいんじゃない。やってみれば。やってみようよ」   

K先生は僕がもっとちゃらちゃらしていた1年時の担任を務めてくださった。2年で担任が代わり、でもやっぱり僕はまず初めに頼りにするなら、ドアをノックしてみるなら、K先生だろうと思った。石塚先生がいなかったからである(アメリカン・ジョークは同じことを3回引っ張るのが習わしらしい)。

その、職員室のストーブに手をかざした帰り道、僕は市内で洋書を扱う数少ない書店に立ち寄り、ペンギン・ブックスを買い求めた。200数ページあった。よそから移ってきたアメリカ生活が初めてという人を想定して、暮らしのさまざまなシーンを紹介するエッセイ。それと、ボブ・グリーン、それから、科学史入門、だったかな。

毎日1ページずつ訳して添削をお願いしようと決めた。K先生には事前の了承をいただいていなかった。大人になったいまならかえって腰が引けてしまう、そこを、これこそ若気の至りというのだろうな、

「先生、訳したので見てほしいんです」

「おお、来たか。わかった。帰りに寄っていきな。どれどれ、ふむふむ。へー」(にやにや)

帰りに寄ると、端正なアンダーラインと、端正な構文解釈のポイントがノートに記してあった。真っ赤っ赤。「明日も来る? やめる?」「来ます」「そう? それはいいことだ」(にこにこ)。

*

毎日、毎朝、必ずしも必ず(変な日本語だ)続いたのではなかった。

それでも、僕が持っていくとK先生はいやな顔ひとつせず、ノートを受け取って、僕たちの授業をそしらぬ顔でこなしながら―たまに訳文と関連する質問を当ててくれたりして―放課後には赤いノートを仕上げてくれていた。

*

以上は、長い長い前振りである。

そのK先生が、僕が高校に在学した3年間で、いちどだけ、文字通り、烈火の如く、容赦なく怒ったことがあった。

同じクラスのN君が、何かのときに、障碍をもった人を揶揄するようなことばを、不用意に発したときのこと。「N、いま何といった?」「…いえ、」「いえ、じゃないだろう」

平手打ち、と呼ぶには強すぎるパンチが2、3発、飛んだと思う。英語の授業中だった。N君はスポーツ推薦か何かで私大に進むことが決まっていた。いいやつだったが、軽はずみなところはあった。仲間内でも指折りに腕っ節の強かったN君が、明らかに気圧され、防御の姿勢をとる暇もなく、床に倒され、固まっていた。

教室が静まり返った。

*

大学を出てしばらくして、「八汐」を訪ねた折、K先生がお子さん、お孫さん、あるいはご親族だろうか、背に負っていらっしゃった。僕が勝手に見た幻だったかもしれない。

後にも先にも、東武日光の駅前を訪ねて、K先生にお声かけするのをためらい、思わずそのまま踵を返したのは、そのとき1回だけである。

僕はいまでも、この歳になっても、不用意な差別的発言を日本語/英語でやってしまうことがある。そんなときに思い出すのは、K先生の、普段は温和な表情と、不意に見せた、激しさだ。いまだに、ここに記した以上のことばを持つことが出来ないでいる。

www.irasutoya.com

ヤシオツツジは栃木の県花です。栃木でやしおといったら、今回の、お土産の「八汐」と、やしおの湯です。)

やしおの湯 ~日光市温泉保養センター | 一般財団法人日光市公共施設振興公社

正直/本音小考

正直と本音の違いを考えるとっかかりの1つは文法です。

  • 正直な(人):形容動詞です。
  • 本音な(☓):形容動詞のようには活用しません。名詞です。

熟語の成り立ちからもそれぞれの品詞の特徴がよく出ていると思います。

  • 正であり直であるような
  • 本の音

似た、あるいは同じ意味の漢字を重ねて形容するのはその意味を強める、膨らみをもたせるときのよくあるパターンで、たとえば「堂々たる」なんていうのは典型ですね。

名詞は、まず本体があって(音)、その上にどのような(本)が乗るというのが典型です。音(ね)というのは由緒正しき意味合いではまず「鳴き声」です。人、鳥、虫が、聞く人の心に訴える音をたてる。本というのはなかなかむずかしい概念ですが、原義は、木の根元の太いところです。字形がそうですね。ちなみに「本音」は岩波国語辞典にはありません。江戸中期の語彙かな。近松か何かで見た覚えがあります。

正直は出典は古く僕の手元だけでも沙石集(1280頃成立)。

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これでいいかな。仏教説話はたいてい面白くないんだけど、沙石集は書き手の無住道暁が、いろんなことを知って(聞きかじって)話がよれていくというおもしろさがあり、また説話部分も、さらっとしている。

話を戻して、いくつかの比較的古い用例にあたってみたのですが、「正直」はどうも、心持ちや人柄のまっすぐさを形容していたものらしい。岩波国語辞典(P.665)に曰く、

心が正しくまっすぐなこと。うそ・いつわりのないこと。

対してビリー・ジョエルに曰く、

Honesty, is such a lonely word. Everyone is so untrue.しょうーじきー なんて孤独なワードー。だれもが不誠実

 

ここは、誠実-不誠実の対のように捉えられている。(独自研究です)

He is honest. 彼は正直者だ。

やっぱり、違う気がする。「彼は誠実な人です」こっちかな。

*

確認しておきたいのは、正直は、人柄全体を形容する。本音は、それに対し、人柄のへその少し下の太い幹のような部分(エヘン)(オホン)から発せられる、聞き手へのあっぴーる、つまり、

こなああああああああああああああああああゆきいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい— り (@fulurili) 2018年1月19日

これなんかいいよねえ。かなりの条件を満たしている。

ただ、借り物では少し足りない。好きな子と付き合って振られてさ、夢みたいな毎日からズンドコベロンチョに落ちる。あれ、ほんとに目の前真っ暗になるから。それで思わず自作の嘆きに音符が乗って何か書いてしまう。「ああああああああああうぉぉぉぉぉぉもうだめぽ」とか。

また、話を戻して、だから、不正直、不誠実な人だって本音は出せる。というか、本音はつい、漏らしてしまうもの。そこを意図的かどうか知らないが、絞り出す、大声でがなりたてた風で論じる人が仮にいたとすれば、それは落選するさ。投票は人柄にするものだから。

*

反対に、正直、誠実な人だからって本音を口にするとは限らない。むしろ反対はあり得る。その、堪(こら)えた姿を、これは江戸期あたりからの美学なんだけれど、粋(いき)だねえ、なんて褒めた。そんなわけで、粋(いき)のもともと、粋(すい)までの導線を引いたところで、笑点お開きの時間が来たようでございます。また次回。

(心根がまっすぐ(「正直者」)だからこそ、ありのままの本心、本音を口にするのに慎みがある人だっています。そのような場合、多くは、ある種の諦めを以て天の邪鬼に育つと思うのだけれど、例外的に、きれいなまっすぐのまま大人の入口を迎える人がいます。何だかわけもなく泣けてきた。)

初期作品は昏いという話

僕のフォロワーさんに、福岡の東筑高校というところを出て九州大学に進んだ優秀な学生さんがいる。彼はポルダリングをやっていて筋肉にも恵まれ、申し分のない青春時代に見えるのだが、たまに(理系の学生さんなのに)文筆の本質を衝くツイートをすることがある。

 その理由は、思うところはあるのだけれど、いまは直接には記しません。

*

藤沢周平の初期作品をご存じか。

新装版 暗殺の年輪 (文春文庫)

新装版 暗殺の年輪 (文春文庫)

 

もうねえ、めっさ昏い。みんな、ばたばたと斃れていく。それだけではない。果し合いを前にした老藩士、範兵衛が、倅の嫁の三緒に「戦いのために一度だけやらせてくれ」(意訳)と懇願して(!)、三緒は応じて(!)、翌朝、三緒は自害する(!)。そしてその自己解釈が、えげつない。

藤沢周平・全作品を読む <ただ一撃>

どうか、入り口で藤沢作品に触れたと思ったら、上掲書を求めてほしい。わいのリンクからでなくてもちろん構わない。人として、書いていいこととそうでないことが、いくら創作でもあるだろう。そう思わず思ってしまう一線に触れる、大変に印象深い作品だ。

*

しかしこれが時を経て、藤沢に一種のゆとりのようなものが出てくる。その誰の目にもわかりやい結実となったのは、やはり、これは「用心棒日月抄」だろう。幾度、わが苦境を救ってくれたか知れない。

いってみれば、「非正規」藩士、青江又八郎が、数々の藩の難儀を秘密裏に命を受け、解決する、藤沢の武家物はサラリーマンものだなどといわれる一端の作品でもあるのだが、に、しても、本作は全体の格調、完成度が段違いにちがう。

特にその、口入れ屋(派遣元)相模屋吉蔵の、長門裕之を思わせる(俺だけか?)ユーモラスな、人を食った風貌、台詞回し、そして青江との(これはもう、掛け値なしの)交情、藤沢周平は、本作を描き切ることで、暗く憂鬱な青年期を対象化し、脱したに違いあるまい。おそらく具体的には、妻に先立たれ、多くの子を抱えた、青江の口利き仲間、細谷源太夫の造形に自らを投影したことで救いを得たのだと思う。そのことはぜひ、藤沢の生涯を知りつつ、その筆致によってうんうんと頷いてほしい。

藤沢周平 - Wikipedia

用心棒日月抄 (新潮文庫)

用心棒日月抄 (新潮文庫)

 

*

その意味で、藤沢はとても分かりやすい作家だ。ごく初期の作品には生と性と死が色濃く出ている。そこから脱した準初期には、人と人との関わり、暖かさ、会話の色が出てくる。それらの集大成が「蝉しぐれ」だろう。初恋、幼年期の友情、組織人としての板挟みからくる葛藤、等々。その合間に、数々の、筆の冴えの走る短篇が置石される。

*

率直にいって、昏い話から出発しない作家は信用できないと僕は思う。必ずしも、処女作、第二作にそれと分かるように書かなくていい。それでも、読めばどれだけの昏さを携え、覆い隠し、昇華しようとしているかは、これはもう読み手にはびしびし伝わるところだ。

30歳、40歳になって、まろやかさ、明るさが出始めるのは、十分に、遅くない。それは、わが鬱の扱い、付き合い方を覚える時期とも重なってくるのではないかのう。

「三十代のおしまいごろから四十代のはじめにかけて、私はかなりしつこい鬱屈をかかえて暮らしていた。鬱屈といっても仕事や世の中に対する不満といったものではなく、まったく私的なものだったが、私はそれを通して世の中に絶望し、またそういう自分自身にも愛想をつかしていた。(中略)(そういう鬱屈の解消方法が)私の場合は小説を書く作業につながった。「溟い海」は、そんなぐあいで出来上がった小説である。」

—(「溟い海」の背景)

藤沢周平 - Wikipedia

諸君、川崎貴子の季節だ

幻冬舎の『ゲーテ』3月号を読んできました。散々迷った挙句、立ち読みだけでなく800円の大枚をはたいてきた。川崎貴子郷ひろみのために。

www.gentosha.co.jp

いやあ、非道い。まさに非人道的記事(の集積)。昔の秋元康、昔の村上龍は、だめはだめなりに、まだ評価すべきところがあった。

頭と手と筆先が腐っているよね。「ドラマチック・レイン」のあの歌謡曲史上に残る「タメ」はどうしたんだよ。二人は uh レイン。簡単に成功しすぎたのか。

www.youtube.com

村上龍、なあ。時代がまだめそめそを残していた昭和51(1976)年に「限りなく透明に近いブルー」を出したのはクールだった。後になって分かったことだが、あれは1983、4年くらいの感覚だ。そう父親から聞かされたことを思い出す。それくらい時代に先んじていた。どうしちまったのか。

ふたりとも、書けないなら書かないほうがいい。

*

川崎貴子(P.134)はよかった。これで原稿用紙2枚(800文字)くらいだろうか。葛西紀明の、まあ東洋経済刊というところはご愛嬌だが、明るくて、過不足がない。それでいて、言葉遣いの端々から、川崎さんの肉声が聞こえてくる。川崎さんは、どう表現したら、読み手に「うきうき」「熱い」感が伝わるかがちゃんと分かっていらっしゃる。簡単なようでいて、これを軽く、簡単を装って、できる書き手というのは思いの外少ない。林真理子「ルンルン」の趣きである(ちょっと違うな)。

彼女、川崎さんはきっと、意識して、それいながらごくさりげなく自然に、自分(のテンション)を高める方法を確立していらっしゃるのだろう。その感性が、今回の葛西紀明の著書ともうまく調和しているように感じさせてくれた。

*

郷ひろみのワイン論もよかった。つまるところ、今回の『ゲーテ』でよかったのは、川崎貴子郷ひろみのエッセイだけだった。

それはこのふたりが、秋元康村上龍見城徹藤田晋や、小山薫堂(85年当時に11PM放送作家をしていたという点を買って評価はまだいささか保留する)といった男性陣の未成熟(ここ点々打って)とはことなる熟成を重ねてきたからだと思う。

*

野暮を承知でだめおしを記せば、川崎貴子のエッセイは、そのような成熟を隠し、放り投げ、ぴょんぴょんと、生に向かうところが最高の持ち味。だから、えーい、書いてしまうぞ、特定の本をあてがって書評を依頼するような企画/担当では、彼女の個性は伸びやかに発揮されないことを僕は懸念する。

もっと、自由に、好きなことを、そう、間もなく訪れる春のように。

*

そんなわけで俺は何度でもいう。諸君、川崎貴子の季節だ。

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(追伸)のっけから、これだけ秋元たちの悪口を書いておけば、さすがの川崎ねえさんもfbするまい(いや、するのか?w)。優れた感性は、こっそり、秘めやかに、知れ渡ってほしい。春は、「春ですよ。来ましたよ」なんて、決して口にしないのでござる。