illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

台所はもうちょっと多様だった気がします

台所はもうちょっと多様だった(内包していた)気がします。めんどくさいのでリンクは貼りません。

南向きの玄関を上がってどんつき(北関東ではいわないけどさ)を左に折れて廊下の右手、ガラスの引き戸を開けたところが食卓で、その続きの奥がお勝手、台所でした。16畳かな。食べる方が7、作る方が9くらいだったと思います。

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そこはガラス戸1枚を隔てた結界でしてん(何弁だ)。だいたいばあさんが立ち仕事や座り仕事をしている。北側の勝手口にはプロパンがあり、虫食いが多いのでやめちゃったけどリンゴの木が植わってあって、ちょっとした石畳があり、鶏の血抜きをしたりしていたのもその一角で。昭和55年ころの話です。

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よく軽口で「うちは男子厨房に入らずだった」てなことを申すんですが、男の書斎、女の台所、みたいな部分ていうのはありました。うかつに、入れない。許されない。呼ばれて初めて行くものです。こっそり行くんですよ。いいほうに転がれば、畑のものとか、東武デパートで買ってきたお土産の大判焼きとか、お小遣いがもらえる。わるいほうだとお説教です。

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まあ、ばあさんはおれのこと鐚(びた)一、叱ったことがないけどね。冬場だとだいたい一緒にストーブにあたって、肩を叩いてあげる。ねこちゃんと暮らすよう(撫でさせていただく関係)になって気づいたことですが、あれは叩かせてもらっていたんですね。並んで、松前漬けの鯣(するめ)いかに鋏を入れたりして。するめが一息すると、羊羹をかき混ぜたり。あのお手伝いも、いま思えば、「させてもらう」機会を授かったわけです。だいたい僕が何をしようと揺らぐような味や料理ではなかった。お情けです。

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亡くなった母親には妹がおります。双子です。それぞれ嫁に行って、たまに、ご亭主と仲違いをして帰ってくる。そうすると、台所にばあさん(すなわち母親)と籠もって、同じです。ひとしきり、愚痴をいわせて、聞き役になって、お茶を飲んで、当時でいう聖徳太子を握らせてね、すっきりさせて送り返すと。

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そのときはやっぱり猫かわいがりされた孫といえど、入れなかった、近寄れなかったです。料理なんかもばあさんと娘で一緒にしてね、だいたい昼前に来て、一晩はうちで寝かせる寸法でしょう。そうすると夕飯どうするの話になり、1人前多く作る、という口実で、まあやっぱり嫁入り前に覚えた味が、嫁ぎ先で変わり種のアレンジが混ざったりして、そのような晩は、妙ににぎやかなものだった、子供ごころをいま思い出します。

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ばあさんも、うれしそうでした。そのことを、僕はお袋ががんで他界する前、駆け込みで、結婚する前の当時の彼女を1人2人(えへんおほん)連れて帰って知り、(所詮、僕は女系の傍観者なんだなあ…という感慨とともに)頷くことになります。ふたりで結託して台所に籠もるわけです。「これは二人だけの内緒よ」とかいってね。毛皮のえり巻きや真珠の授受が行われたらしい形跡があります。

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「お母さん食堂」という文字列を目にして、香取慎吾君のビジュアルから一歩引いてみたときに、僕が初期に思ったのは、こういうことは口にするのも抵抗があるんですが――都市部で行き場を失った「お母さんたち」の、居場所を作る活動なのかな、ということでした。

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それを、食事(調理)や給仕という近代から見た機能(すなわち役割)の1点2点で、みなさん口角泡にどうのこうの仰るというのは、僕が古い時代遅れだからだと重々承知ではありますけれど、やっぱりね、ちょっと違うかなと思います。僕がですよ。僕が、時代から違うといわれている感じ。