もうずいぶん前に、くーちゃんがまだ今よりもずっと小さいさんだったころ、風邪を引かせて、小型のケージに入れて、病院に連れていったことがある。
アパートの階段を下りて通りに出ようとした先、後ろから「あら、ねこちゃん?」という声がした。同じアパートの1Fに住む、めったに顔を合わせない、僕よりも10か15くらい上だろう、おば(あ)さんである。
「そうです。風邪を引かせちゃって。これから動物病院まで」
作り笑顔で相手をすると、
「あら、幸せね」
と、そのおば(あ)さんはいった。
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幸せというのは、運命の内側に、それと知らずに居る(在る)ことだろうと思う。
たとえば、僕が最近つくづくと思う、「おじいわん」ソーヤ君のことだ。
ソーヤが10歳でうちに来た当初は食欲が無く、お皿のフードに全く手をつけないままオフトゥンに行って寝てしまうことがよくあった。なので、私がフードを数粒ずつ手に取り鼻先まで持って行って食べさせていた。
— 東雲 鈴音🌸 (@goen0414) May 11, 2019
それがすっかり習慣になってしまい、6年間ずぅーっとこの食べ方。
甘えんぼおじいわん。 pic.twitter.com/K55hYs04EW
僕は彼が大好きで、彼はどこかよそで辛い思いをした(らしい)後で、鈴音さんのところにやってきて、あるだけの幸せを振りまいて、そこで共に暮らす人の心に内側から明かりを灯して、そうして、静かに、ついこの間、虹の橋を渡った。
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僕も、そうだった。どこかよそで辛い思いをしたのではない。生を授かり、おそらく、いくばくかの身の回りの人に、それなりの幸せを、手渡した可能性がある。
わがことを誇りたいのではない。おれは、ばあさんが横になっているそばで、タオルケットを敷いて寝ているのが好きだった。そしてばあさんは、自分が具合がわるいのに、おれからタオルケットが外れると、寝ているおれを起こさないように、身を起こして、静かに直してくれる、そんな人だった。
おれは、幸せだったと思うし、くーちゃんがいま幸せであるかどうかを問うことを自分に戒めながら、下僕としての務めを果たそうと思う。などと都合のいいことをいいながら、おれはしばしば不安に襲われ、つい、いくつかの構造を取り出して、どの立場にあるだれが、幸せなのかを検証しようとするのだが、わからないことが多すぎるので、つい、「くーちゃん、幸せですか」と、問うてしまう。
まったく、万死に当たる行為というほかにない。
そして、そんなおれも、いま「内側」にあることは、ほぼ間違いないことのように思える。そのことが、何だか、そして切実に、だれかに対して申し訳ない気がする。