illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

(やはりおれのくーちゃん)

もうずいぶん前に、くーちゃんがまだ今よりもずっと小さいさんだったころ、風邪を引かせて、小型のケージに入れて、病院に連れていったことがある。

アパートの階段を下りて通りに出ようとした先、後ろから「あら、ねこちゃん?」という声がした。同じアパートの1Fに住む、めったに顔を合わせない、僕よりも10か15くらい上だろう、おば(あ)さんである。

「そうです。風邪を引かせちゃって。これから動物病院まで」

作り笑顔で相手をすると、

「あら、幸せね」

と、そのおば(あ)さんはいった。

*

幸せというのは、運命の内側に、それと知らずに居る(在る)ことだろうと思う。

たとえば、僕が最近つくづくと思う、「おじいわん」ソーヤ君のことだ。

僕は彼が大好きで、彼はどこかよそで辛い思いをした(らしい)後で、鈴音さんのところにやってきて、あるだけの幸せを振りまいて、そこで共に暮らす人の心に内側から明かりを灯して、そうして、静かに、ついこの間、虹の橋を渡った。

*

僕も、そうだった。どこかよそで辛い思いをしたのではない。生を授かり、おそらく、いくばくかの身の回りの人に、それなりの幸せを、手渡した可能性がある。

わがことを誇りたいのではない。おれは、ばあさんが横になっているそばで、タオルケットを敷いて寝ているのが好きだった。そしてばあさんは、自分が具合がわるいのに、おれからタオルケットが外れると、寝ているおれを起こさないように、身を起こして、静かに直してくれる、そんな人だった。

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おれは、幸せだったと思うし、くーちゃんがいま幸せであるかどうかを問うことを自分に戒めながら、下僕としての務めを果たそうと思う。などと都合のいいことをいいながら、おれはしばしば不安に襲われ、つい、いくつかの構造を取り出して、どの立場にあるだれが、幸せなのかを検証しようとするのだが、わからないことが多すぎるので、つい、「くーちゃん、幸せですか」と、問うてしまう。

まったく、万死に当たる行為というほかにない。

そして、そんなおれも、いま「内側」にあることは、ほぼ間違いないことのように思える。そのことが、何だか、そして切実に、だれかに対して申し訳ない気がする。