illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

綿を打つ

「綿を打つ」――実際に何をどうする行為なのかはわからない。ただ、うち(生家)は、前にも書いたか知れないが、県議とか何とか組合の連中とかがわりと頻繁に出入りするような家で、だいたいいつなんどき20人くらいの宴席が始まってもいいように、いろんなものがしつらえてあった。

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昭和50年代に増築して「新しい部屋」(新式銃みたいな名前だ)と僕ら孫は呼んでいた。離れの和室、10畳、床の間付きが2つ、渡り廊下があって、縁側からは鯉が見える。奥には脚踏み式のシンガーミシンが鎮座しており、そのさらに奥にある引き戸に、座布団が、布団が、仕舞われてあった。南向きの右手が鯉の池で左手が障子である。職人が来て障子を張り替えるときの日差しの暖かく鋭い光の差し込みを、40年が経ったいまでも僕はまざまざと思い出す。

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綿打ちには、職人は来なかった。気がする。ばあさんは自分で打っていたのでもなかった。綿屋に出したのだろう。その辺りの記憶は曖昧である。縁側から、仕上がった布団を運び入れた絵が、いま脳裏に浮かばぬようで浮かぶようで、日差しの暖かかったことは、覚えている。6歳か、7歳当時、僕はいつでも家にいるときはばあさんの後をついていた。

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綿も、型も、どうしたのか。わからない。わからないけれど、16歳、1989年の冬に、ばあさんは僕に半纏を仕立ててくれた。ばあさんはよく――よくというか、あの頃の人は、女手はそうだったと僕は思うのだけれど――針山を立てていた。火に、あるいは日に、当たりながら、何かしらを縫っていた。何を縫うというのでもなしに。

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ただそのときは、「孫に半纏を」といってくれたのを薄っすらと覚えている。仕上がりを、楽しみに待っていたのも、いま思い出した。綿はおそらく、綿屋から、打った残りか何か、端綿と呼ぶのだろうか、を受け取って、それを僕の半纏に入れてくれたのだったか(袋に入れられて受け取っていた絵が遠い記憶からいま引き出された。親父のマークIIの後部座席に押し入れたのだった)。

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その半纏は、僕の身体(いま上半身と書きかけてためらった挙句にやめたのだけれど)に、腰下の辺りまで、見事にフィットした。身体を計ってもらった覚えはない。ものすごくよかった。だぼっと身体に合う。冬場は家に帰るなり学生服を脱いで下はジャージ、上は今でいうユニクロのような位置づけのGAPのトレーナー。それに仕立ててもらった半纏を着て、それでその頃、アルツハイマーが始まりかけていたばあさんを炬燵で見守った。英単語集を片手に。

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大学に合格して、最初に箱詰めに忍ばせたのがその半纏だった。何度めかの放蕩と放浪の折に、書籍や楽器と一緒に半纏を実家に戻した。半纏(的なもの)から卒業する、しなくては、という若気の至りがあったことは省みて否定し得ない。手放すべきではなかった。

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いま、くーちゃんの安心して眠る顔を見て、その半纏をかけてあげたい。あるいは、包んであげたいと思った。