illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

杏林堂藤田宝(ほう)ちゃん先生の話

ある種の手向けの話。よって「復活の日」準備日記、の冠は外した。

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宇都宮市の東部を南北に鬼怒川が流れる、東西に水戸街道、国道123号線が横切って走る、2本かかる橋、うち北側が旧大橋、南側が新しい大橋である。東野と東武国鉄のバスは旧道を走った。旧道沿い、橋を東に渡りきったあたりから鬼怒大島というバス停とともに小さな街道町が開け、左手に杏林堂藤田医院、右手に旧鈴木金平酒店、左手に釣具店と絹島屋と洋品店、再び右手にデイリーヤマザキと松本接骨院、おおまかにそんな配置。間にあぜ道と水田とバス停。

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うちのばあさんの本家筋が和菓子の絹島屋である。昭和54年ごろから僕はさらに東の坂を上った村落からバスで市内の学校に通った。そんなわけで景色はいまでも鮮明に頭に焼き付いている。宇都宮東武から、宇都宮農業短大までが片道290円、益子までが610円だった。毎年ストと10円20円の値上げが行われていた時代の話。

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うちのじいさんは戦争で左目の傷と肺化膿症をもらってきた。僕が物心ついてからは仕事につかず、恩給と年金と、株式の配当で、日がな縁側を、日のあたる庭先を選んで歩いて暮らしている人だった。実質的な家計は果樹園と造園でばあさんが立てていた。

じいさんはたまに熱を出す。

用心に用心を重ねてても、午後2時3時になると熱が上がって、7時ごろには、明日にも国立療養所に入れようかどうしようかと、ばあさんが身の回りのものを包み始めるような、そんな曖昧な綱渡りを器用に、といったら何だがこなしていた。

7時というのは勝負の時間帯で、町中の医者に連れていくのでは遅い。熱はお構いなしに、徐々に上がってくる。

往診に来てもらうなら、電話をかければ8時に来てもらえる。ばあさんが電話をかける。30分もすると、鬼怒大島から藤田宝ちゃん先生が、ダークのセドリックに風呂敷包みでやってきてくれる。その30分の間、孫たちは玄関から廊下から洋の間から、大急ぎで片付け、である。宝ちゃんが連れの看護婦さんとお通りになるからである。

それからお湯を沸かし、きれいな布とちり紙を出す。お茶請けは、絹島屋さんからのものが年中、絶やさずにある。

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宝ちゃん先生は、ほとんど何もしなかった。風呂敷包みから取り出したアンプルを、ひとつまみして、中指で器用にぴんと弾くその手姿、佇まいが、印象に残っている。僕は宝ちゃん先生の長い指と、脇に置かれた謎の道具入れとを、畳数枚と襖を隔てたこちらから観察するのが好きだった。

じゃ、いつもの注射をね。(宝ちゃん)

はい。先生お願いします。(ばあさん)

あれは何の薬剤だったのだろう。熱が下がるときと下がらずに翌朝一番で国立療養所に車で運ばれるのと、当たり外れはロクヨンかナナサンくらいだった気がする。「宝ちゃんは注射だけはうまい」と、じいさんもばあさんも口を揃えていった。何かしらのつぼのようなものを心得ていて、痛くないらしい。

注射を終えて、茶を飲みながら、孫たち3人が順繰りに顔を出し、近況を聞かれたり、身長体重の話をしたり、身体の具合でどこか変わりはないかと尋ねられたり、学業成績をほめられたり、ばあさんにいわれて一升瓶をもってきて渡したり、内緒だよといって、乗りかけたセドリックの奥から財布をとりだして、お小遣いをくれたりした。

お医者さんになりたくなったら、いつでもおいでよ。

そんなこともいわれた。野口英世の伝記まんがを読んだ話をしたときだったと思う。小学校2年、昭和54年、そんなところだったろう。宝ちゃん先生は56歳くらいか。

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このところ、左膝と両の足首と、甲が痛いので、船橋の総合病院に見てもらいにいった。その、待合の高齢男性たちの柄の、態度の、言葉遣いの平均レベルの劣ることといったらなかった。投げ出すように、名詞と間投詞しか発しない。文を作って発話する機能が損なわれているかのようであった。かかったのは脳神経外科ではなく整形外科である。

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思ったのは、クラークの方の、いま風にいえば傾聴力というか、赤子をあやすようになだめて、必要な情報を引き出す熟練の技である。更新のために足を運んだ、運転免許センターの朝の待合を思い出した。そしてお医者さんはえらいなといういつものことと、よよん君の主治医、井上先生の話だった。

離島の、無医村で宿直をやる夢を思い描いていたこともあります。家族3代、はさすがに無理かな、2代、おじいちゃんとお父さん、あるいはお母さんと娘さんでもいい、2代10年ずつ計20年も付き合ったら、家族の病歴も、食生活も、交流範囲も、ぜんぶわかる。頭に入っている。自分も、地元で同じものを食べている。

それが、ひとつの理想だということは、若い研修医の頭をいちどは通過するものです。でも、現実には、なぜかできない。叶わない。諦めざるを得ない。

血液グループ先生のことも、僕は思い出した。

井上先生の印象的なことばを引いて敬意を表すべきだろう。

「たしかにちょっと変わっているかもしれない。でも、この世界に棲んでいる人は、みな大小はあれ、変わっているものです。あの先生のすばらしいところは、やるかやらないかで、やる、の方向に羅針盤を切り替える力をお持ちのところです。友だちが洋一君のためにと開いていた別の掲示板で、食生活や病歴や、付き合っている女性の有無まで尋ねているでしょう。あれは僕にも、とても参考になった」

高齢男性患者さんたちのナチュラルな横柄さについては、それらの話題が得意な社会論者のみなさんにお任せしたい。

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僕が、そんなことは夢物語にすぎないと理性ではがんがんに自分で自分を否定しながらも、鬼怒大島のすばらしい藤田宝作先生は、僕ら孫の代にあたる3人が成人するまでの健康と疾病の管理を、あるいは見届けてくれようとしたのではなかったか。そこまではいかなくても、あるべき医と暮らしの隣接する関係が身についた、自然な姿を見せてくれたのではなかったかと。

そちらの、遠い記憶の記録のほうを、僕は受け持つ。

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インテリの父親は、宝ちゃん先生には否定的だった。じいさんとばあさんが「宝ちゃんは注射だけはうまい」といったことばを真に受けて、オウム返しならぬオウムなぞりの受け売りを口にしていた。「杏林だからなあ」とも。じいさんとばあさんが「金をずいぶん積んだらしいぞ」とこれは冗談めかして口にしていたことも、額面通りに受け取っていた。そのことに僕は長く違和を覚えていた。

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おふくろはまた別のいいかたをしていた。

「宝ちゃん先生は、うちのおばあちゃんのいうことは絶対なのよね」

宝ちゃん先生自身、

「○○ちゃん(ばあさん)は尋常小ではいつも一番、級長。私はビリに近いほうでした」

そういって、笑って、頭をかいていた。再びおふくろの証言、

「宝ちゃん先生は、うちのおばあちゃんに何か弱みでも握られているのかしら」

不肖の孫、40年後にして気付いた。このことは実は去年から頭にあった。藤沢周平蝉しぐれ」を何読めかをしたときに、何かがつながったのである。ばあさんは、色白でふくよかで、女優のだれそれに似た庄屋の娘、当時大正12年生まれにしては長身(164cm)だったから――

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ばあさんが、どんな心持ちで、じいさんに仕え、技を使って宝ちゃんを従え、じいさんのたどたどしい生命を守りきったのか、いまとなって本当のところはわからない。ただ、じいさんやばあさんがそういう(ここ点々うってください)ハイパーコンテキストな会話をするとき、その吟味は、外形、構造、内部、時間の経過といった、いくつもの観点から捉え直さないとわからないことが、しばしばある。

幾度も反芻してようやく蜘蛛の糸をつかむような味、ことばじりだけでは到底達し得ない滋養の得られることが、少なくないのである。

(もちろん、宝ちゃんは宝ちゃんで、わかっていてしたたかに役を演じたところはあったろう。)

この機に白状するならば、僕はそれをひとつひとつ取り出しては光にかざして確かめるために、このブログを書いている。

往診一般が文化かどうか、文化たり得るかどうかはわからない。けれど藤田宝ちゃん先生が来てくれる往診は、僕には少年期の基層を形作り、育んでくれた、間違いなく、得がたい文化だった。

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ちなみに、いま杏林堂は宝作先生の娘さんが同じ場所で跡をついでいらっしゃる(あるいは、さらにその次の代であってもおかしくない)。

ウェブの口コミをみると「患者の話を聞かない」なんていう辛口もあるようだが、何のその。

宝ちゃん先生なんて、うちのじいさんを、だいたいの大枠の話、つまりは勘と大局観でしか見ていなかった節がある。インフォームド・コンセントなんてのは、「じゃ、熱冷ましを打っておきますからね」くらいのもので、「だめなら療養所でね」なんて、(名人ならではの)見切りもしていた。それでいて外さなかった。外すような腕と人柄なら、じいさんもばあさんも、長く命を預けたりするはずがない。

だから2代目(3代目?)先生も、案外、お父様譲りの、名医なのではないかという気がする。