illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

「復活の日」準備日記#0019 随筆にみる黄金頭さんのよさ

黄金頭さんのよさが、大変によく表れてます。

goldhead.hatenablog.com

  • 緑への愛
  • 小さきものへの偏愛
  • 10歳の男の子のような匂い / 40歳の大人の匂い
  • 光を求める行動様式

ふと、思ったことがある。

薄暗いねぐらで寝ころんだまま、携帯電話やメール、チャット、掲示板などのそれぞれの方法で知らせをうけた人々は、まず、驚きとともに覚醒する。夜行性で日の光が苦手なかれらの部屋には昼間でもカーテンが下ろしてあるが、しかし今日は特別な日なのだ。そう自分にいい聞かせると、かれらは意を決して起き上がった。近所の自動販売機まで出て、缶コーラを買うためである。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054886329995/episodes/1177354054886330001

黄金頭さんは2002年10月2日に僕がアパートの屋上から見た謎のおどる人々に含まれている可能性が出てきた。

当時、よよんのことはご存じなかったとして、知っている人だけがおどったと僕は書いた覚えはない。「それぞれの方法で知らせをうけた人々は」と、すばらしい反時代精神の持ち主である船橋海神は慎重にことばを選んだつもりだ。

リアルタイムで知っていた人も、あとから知った人も、それ以外で魂が触れた人も、僕の見た淡い光には含まれていた。過去は過去であると同時に、一本の予感の線であった。

*

すぐれた文章は、本質的な、生と死の合わい/淡いに、何気ない奇跡の姿をして、立ち現れる。郵便配達人は、その欠片や兆しを、拾い上げたり、つまんで観察したりしながら、少ない読者のもとに届けようとする。

そしてもちろん、郵便配達人にも、まめなタイプと、なげやりなタイプがいる。

「復活の日」準備日記#0018 20年平穏にかつ公然と

民法に取得時効があります。

民法 第162条【所有権の取得時効】 ① 20年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。

民法 第162条【所有権の取得時効】 | 司法書士条文学習教材『択一六法』

刑法にも、公訴時効があります。

人を死亡させて、長期20年の懲役・禁錮刑に当たる罪は公訴時効が20年になります。

法定刑ごとの公訴時効一覧と過去の未解決事件一例|刑事事件弁護士ナビ

*

私も弁護士ではない士の付く、使っていない資格が2つほどあります。錆びついております。まるで自衛隊私の股間に生えた竹竿のようです。

射精っていうほど射か?(追記)

それでその、20年というのは、公然占有するにせよ、重い罪を犯して逃げおおせるにせよ、もう落ち着いてしまった社会関係や秩序のほうを重んじるのに十分な、人心の腑に落ちる、期間なのだなと甚く感じ入った遠い記憶があります。私はその、使っていない資格を、ホップ・ステップにして、司法試験か外交官試験を受けようかと思うていた時期もありました。妨げになったのは古典と国語学であります。

*

その、悶絶していたころ、本郷の構内で、一升瓶やビールを携えたおねえちゃんが、法文1から3館のあたりを横切り、三四郎池から山上会館を過ぎ、理学部農学部のほうに歩いていくのを、しばしば目撃したのであります。私は酒を研究室まで運ぶのを手伝った。97年頃でした。なんと三河屋さんが勝手口まで運んで置いて帰るようなビールケースが農学部の研究室に進軍していく。私はただ後をついていっただけです。当初はそうでした。しかし、

「よく来るね君は。いつもありがとうね。ここの学生さん?」

教授はそう仰ったので、イケない口でもなかった文学徒の私は、

「はい。法文のほうの院生です」

畑違いの研究室に、いつしか気分転換を名目に、足を運び、ビールを、芋焼酎を、教授がお好きであった「信長の野望」のお手伝いを、勧められるがままに、進んで、行いました。教授は私と同じ阪神ファンで、実直なお人柄に「永遠の青年」と周囲から呼ばれた風貌が相俟って、周りの多くから好かれ、愛されていました。

*

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2001年5月14日に離婚して19年が過ぎました。私は人生の折節に、「もっとこの人と(/私と)話をしておくのだった」という(先方が思ってくれていた可能性の高い)気持ちに、取り返しのつかないくらい、だいぶ後になってから、ようやく気付く奇病にかかっています。私が「新型トカトントン」ないし「不義理の病」と呼んでいる《それ》は、いよいよ私の左膝に水を溜めはじめるまでになりました。

*

20年、あるいは、もう許されていいころという啓示が下りてきたら思って、この小片を書き出したのです。しかし残念なことに、法は最低限の道徳でありました。平穏無事に所有権を得、公訴を免れ得、思い出をわがものとしたところで、かえって、悲しみは増すばかりです。

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美智子様は、新美南吉「でんでんむしのかなしみ」に触れて、次のように仰っています。

そして最後にもう一つ、本への感謝をこめてつけ加えます。読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても。

第26回IBBYニューデリー大会基調講演 - 宮内庁

かつて少し別の切り口から触れたことがあります。

dk4130523.hatenablog.com

高度に訓練された読書はなぜか追想と墓参りに帰着してしまう。相当程度の真理であるはずです。なぜそれらの悲しみをハウツーではなく文学の力によって癒やす先達の書が、今週のベストセラー常連になっていないのでしょうか。つくづく、書物には裏切られた思いです。

かくなる上、もはや、古語辞典のほかに信に足るものはありますまい。

「復活の日」準備日記#0017 広岡達朗研究の最前線 2020年5月

あらためて2020年5月時点の、広岡達朗研究の最前線について記録しておきたいと思います。アフィリエイトは趣味でないので、ありません。

基本書4選

  1. 海老沢泰久「みんなジャイアンツを愛していた」
  2. 海老沢泰久「監督」
  3. いしいひさいち「がんばれ!!タブチくん!! (2)獅子奮迅編」
  4. かざま鋭二/高橋三千綱セニョール・パ

海老沢泰久広岡達朗付きの伝記作家です。いえ、違うんですけど、そうです。1番と2番はノンフィクションと、フィクション、あれ? 2番もノンフィクションだ―1978年に東京エンゼルスという球団が広岡達朗を監督に迎えて球団創設以来の優勝を飾ります。その裏面史です。どっちが。あれ? 1番? いうならば、1番は、歴史書です。2番が、パラレル・ワールド。

2番には、1番の史実がアレンジされて創作されています。いまのみなさんのことばでいうなら、1番の海老沢泰久自身による二次創作が、2番です。あれ?

一例だけ引きます。

たとえばランナー一塁で相手がバントで攻撃してきたとする。この場合、まず一塁手三塁手と投手が打者の目前まで猛烈にダッシュする。そして二塁手が一塁、遊撃手が二塁、三塁は捕手がそれぞれカバーリングする。なによりもランナーを二塁で殺すことが目的なのだが、もし結果的にバントが成功したとしても、打者とランナーにこのシフトが与える心理的な圧迫には計りしれないものがあるだろう。だが、だれかひとりでもこのシフトに忠実でない野手がいたとしたら、これほど危険なシフトはない。どこかのベースがひとつか、あるいはふたつ、ガラ空きになってしまうのだから。

「みんなジャイアンツを愛していた」(前掲書P.21-22)

これが1番です。

ブレーブスとしては、やろうと思えば何でもできるチャンスだったが、2点差の9回というイニングを考えれば、まずバントで同点のランナーを2塁に送るというのが最良の策で、ジャイアンツとしてはそれがいちばんいやだった。

日本シリーズ史上に残る有名なプレーが実行されたのは、この直後である。はじまりは、ベンチから出た川上の球審に対するつぎの声だった。

「ピッチャー、堀内」

スタンドがどっと沸いた。いまや堀内のフィールディングのすばらしさは、日本シリーズに足を運ぶくらいの野球ファンなら誰でも知っていたので、堀内の登場によってつぎの展開が俄然波乱に満ちたものとなったのである。西本(幸雄監督。引用者注)は、2塁のランナーがサードで殺される危険を冒してまでバントのサインを送るだろうか。それともバントをあきらめて強攻策に切りかえるだろうか。

 「最高のシーズン」(『ただ栄光のために――堀内恒夫物語』新潮文庫P.227-228)

これは、上には引いていませんけれど1番のグループです。

無死1、2塁。はじめてのチャンスらしいチャンスだった。ヘミングウェイにかえてバントのうまい打者を送ることを広岡は考えた。堀内はフィールディングがうますぎる。下手なバントでは3塁で確実に殺されるのが明らかだった。しかし、リリーフ投手のことを考えて頭を痛めた。しばらく迷っていると長島がベンチを出てマウンドに歩いていくのが分った。ほっとした。ここは広岡の作戦を予想して、ピッチャーは堀内でなければならない。しかし替えるだろうと広岡には思われた。長島は守ることより、ここで抑えきってしまうことしか考えていないにちがいない。

<さあ替えてくれ>

堀内以外なら誰でもよかった。彼よりフィールディングがうまいピッチャーはいないのだ。普通のバントをすればランナーはきっと進塁できるだろう。やがて堀内がしぶしぶマウンドを降り、新浦の名前がアナウンスされた。広岡はヘミングウェイをそのまま打席に送ってバントさせた。

『監督』文春文庫P.194-195

これが2番です。伝わってないな(笑)。まあいいです。秋冬の神保町の読書会を覚悟しておいてください。

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基本的に、広岡達朗研究は1番と2番でこと足れりとされてきたところがあります(だれによって?)。ところが、数年遅れ、ほとんど同じ時期に、実はコミカルな広岡達朗像というのが提示されています。それが3番。私が、やくみつると異なる、すばらしいいしいひさいちの慧眼がすばらしいといつも思うのがこの部分です。広岡さんは「がんばれ!!タブチくん!! (2)獅子奮迅編」作中でけっこうコケにされています。

いしいひさいちとは別に、やはり似た時期に、広岡達朗のユーモラスな表情を活写したのが4番です。同時に80年代のパ・リーグの雰囲気を巧みにいまに伝えています。ちなみに、4番の原作者、高橋三千綱は早稲田の英文科を中退の後に、すばらしい東京スポーツ新聞社に入社しています(黄金頭さんのことが喉まで出かかっているのですが、今回は禁欲します)。

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だいたいこの4冊/シリーズを、1年間365日のうち240日、各書1日1回通読すれば、広岡達朗研究の骨子は叩き込まれたといっていいでしょう。骨子ができたなら、戦後スポーツ史のどこ/何をどう読んでも、広岡達朗と結びつけて考えることができます。

それを10年、できれば20年、続けてください。

ウィキペディアプロ野球関連のどの項目を見ても、広岡達朗と力まず、自然に線を結べるようになれば、まずは免許皆伝といえるでしょう。西武ライオンズ監督就任要請をうけたときに浅利慶太とゴルフをやっていたことまではさすがに出題されません。ご安心ください。

近年の出色映像作品

広岡さんの末っ子としてのよさ、甘さ、明るさがようやく21世紀になって自然に現れるようになりました。それが「平成日本のよふけ」です。

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基本書4選、さすがの海老沢泰久でも、引き出せていない話がちらほら紹介されています。これは海老沢泰久と笑福亭ちんこ鶴瓶のインタビュアーとしての芸風の違いによるもので、基本書4選の3番と4番に近いところに布陣します。私はこの(笑福亭鶴瓶によるほぐし技を受けられた)番組を、広岡さんにとって実に幸せなことと思います。

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基本書に続く参考文献

今日は言及を避けますが、他にも主だったところをいくつか挙げておきます。

  1. 海老沢泰久西武ライオンズプロ野球グラフィティ」
  2. 海老沢泰久「ただ栄光のために―堀内恒夫物語」
  3. 広岡達朗「私の海軍式野球」
  4. 川上貴光「父の背番号は16だった」

補遺1

マリーンズGM時代のことは私とは別の研究者の方にお任せします。私にとっての広岡達朗像というのは85年にタイガースとの日本シリーズに敗れて退団するまでの広岡さんです。研究者には、どうにもならず愛してしまう対象範囲と、向き不向きというのがあります。

補遺2

かつてのように必死でプレーしなくても、やすやすとジャイアンツに勝てるようになったのだ。どのチームにも、もう到達すべき最終目標のチームはなくなった。リーグ全体の野球が荒れるのは当然だった。

「誰かが何かしなければならない」

と広岡は思った。

前掲書1番P.104

*

幻冬舎というところから、広岡達朗プロ野球激闘史」という単行本が出ました。一般の読者の方には、まったく手にとって読むところのない本です。私のような広岡達朗研究者が「抑え」に1冊手元に留め置いておけばいい。

題名にも偽りありで、まるで広岡さんの声になっていなければ、「プロ野球激闘史」にもなっていない。平井三郎川上哲也からイチローまでの27人の新旧プロ野球選手に対する広岡さんのコメントが、薄く水増しされて大ぶりの活字と字間で編まれているだけです。

かつてのように必死でことばを紡がなくても、やすやすと世に本を送り出せるようになったのだ。どの書き手にも、もう到達すべき最終目標の作品や読者はなくなった。国中の出版が荒れるのは当然だった。

「誰かが何かしなければならない」

船橋海神はそう思いました。かくなる上は、2020年秋冬から、神保町あたりの貸し会議室で、継続的な読書会を開催するつもりです。

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「復活の日」準備日記#0016 不完全な五輪に向けて

現代五輪が「見る」スポーツの姿をとらざるを得ない以上、行われている間には不完全であり続けます。競技の翌朝に人々が見て間もないことを「感動」として語り合うのは、それらの不完全を埋め尽くそうとする本能的な衝動です。

しかし語りもまた揮発性が高い。そこで記す種族の出番と相成ります。記す種族は競技翌朝からさらに少しの時間差で、また別の形で欠落を埋め、定着を図る、息の長い黒子です。

私は2021年東京五輪の公式レポーターにすばらしいスポーツライター乙武洋匡を、記者筆頭に大作家のはあちゅうを、それら文学の宣伝主任には、天才編集者の箕輪厚介をそれぞれ強く推したい。彼らを措いて2021年東京五輪を「完全」たらしめるのは、なるほど困難です。

同じ理由で、記録映画の製作委員会は電通が牽引するのがよいでしょう。みなさんよく理解されている通りです。

*

1964年東京五輪Wikipedia記事の一節をご覧ください。「#東京オリンピック開催が日本にもたらした影響」

1964年東京オリンピック - Wikipedia

みなさん、今般のコロナ禍でのこれと似た列挙尽くしの形式に見覚えがありませんか。

(書き手本人もおそらく意図せずしてそうなった。だから本物だと私はたびたび申し上げております)ジャーナル(記録)を、心あるみなさんなら、つい先日、某読み方不詳ハンドルさんおなじみの巧みで控えめな、それでいて情報量は圧倒的な文体で堪能されたはずです。

どことは申しません(申したように見えるのは住所表記です。場所はあくまでも想像力の裡にあるのです)。「うろ覚え」と題された約束の地、フィールド・オブ・ドリームスによく似た形をとっていました。私はすばらしいものを読んだ。

完全な五輪はみなさんがお好きになさればいい。さりとて、誇りというものがございます。我が方、不完全な五輪陣営、とりわけ斯界の至宝たる主筆には、鐚(びた)いち触れさせないので、覚悟しておくがいいです。

「復活の日」準備日記#0015 どうしたら文章がうまくなるのか

どうしたら文章がうまくなるのか。文体を得られるのか。

ひとつの答えがあります。私もこのブログで、以前にも触れたことがあるかと思います。海老沢泰久さんのファン、日本で一番の海老沢泰久読みヒサさんのサイトです(20馬身差の2着は僕です)。ここに、プロセスとレコードが明確に記されています。

http://www.asahi-net.or.jp/~hz7h-oohr/Profile.html#20100813

ここから、まず2010年8月13日の日録を読んでみてください。それから試しにページの先頭に戻って、お好みでサイト内のリンクに飛んだり、時系列を目で追ったりしてみてください。

いちどお会いしたいなあ。メールでのやり取りはしたことがあるんだけど。

ヒサさん、私の敬愛する同時代の書き手ふたりのひとりです。

「復活の日」準備日記#0014 渡(わたりではなく、わた)さんの件

やはり、この箇所を何度でも引かせてほしい。海老沢泰久「監督」屈指の名場面。アフィリエイトに結びつかないほうのリンクを貼るので、どうかご容赦願いたい。

監督 (1979年)

監督 (1979年)

 

試合終了後、広岡は岡田と食事に行った。

「ここの鴨のローストはうまいんだ。バターを塗って丸焼きにしただけのものだがね」

なるほど岡田のいうとおりだった。鴨の味がそのまま生きていて、ためいきが出るほどうまかった。広岡はその味を楽しみながらワインをのみ、それからコップの水をすこしのんだ。

「うまい料理を食べているときにこんな話をするのはいやなんですが――」

彼はいった。「どういうふうにしたんです? 高柳を締めあげたんですか」

「ああ、そうだ」

岡田は鴨を口に運びながら、顔色ひとつ変えずに答えた。「どうしても監督になりたかったらしい」

海老沢泰久『監督』(文春文庫)P.347

めんどくさいのでいろんなことは書かない。高柳とはとか、この話は何であるかとか。

*

それらのことは、あらかじめ飲み込んでおいてほしいのである。

*

主眼は、ここで一呼吸をおいて、岡田三郎は広岡達朗の気持ちをどうしても確かめたくなる、その心持ちのことだ。

三者的に見れば、そして広岡達朗という人物のあり方を見れば、広岡の気持ちはとうに固まっていたことは(初めから)わかっている。それでも岡田は広岡の気持ちを確かめたい。

「わたしはジャイアンツを追われた人間ですよ。どうしてそんなやつに監督の話がくるんですか。そんなことはありえません。ジャイアンツというのはそういう球団です」

「万が一、話があったとしたらどうする?」

「どうしたんです、いったい」

「きみをどこへもやりたくないからだよ」

「そうですか。万が一、話があったら――、きっとどうすべきか考えるでしょう。そして――」

「どうする?」

広岡は苦笑した。

「厭だ、といいますね」

岡田の顔に笑いが広がり、それから彼はボーイを呼んで新しいワインをはこばせた。そしてふたつのグラスになみなみと注いだ。

「乾杯しよう」

と彼はいった。「きみをクビにしてくれたジャイアンツに!」

前掲書P.352-353

*

私はある人物を、どうしても、何があっても箕輪厚介(伏せ字)の側にやりたくない。

「万が一、話があったとしたらどうする?」

問い詰めたい。言質を引き出したい。伏せ字の側には金がある(らしい)。万が一、そう、「万が一、話があったら――」その人物、彼が、転ぶような人ではないことは、その書くものから明らかだ。顕現である。信じないのではない。私の目に狂いはない。

それでも、

「どうする?」

どうもしないのはわかっている。そちらに行ったら才能を使い潰されて枯れて倒れる、そのことも私はわかっているし、その人物、彼も、冷静に直観しているだろう。

でも、岡田三郎は切ないのだ。ここでの切は、大切の切である。

「きみをどこへもやりたくないからだよ」

「そうですか。万が一、話があったら――、きっとどうすべきか考えるでしょう。そして――」

岡田=津川雅彦の目を大きく剥く、見開く気持ちが、この数日間ほど痛切に感じられたことはなかった。私もかつて一時期、いわゆる編集の仕事に携わっていたことがある。稀有の才能、それも生涯この1回しかないと思えた出会いは、どこへもやりたくない。

編集者なりディレクターなりプロデューサーなりの価値の第一歩は、そこにある。本来、そこにしかない。そう、叩き込まれた。渡さん。

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