illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

「復活の日」準備日記#0017 広岡達朗研究の最前線 2020年5月

あらためて2020年5月時点の、広岡達朗研究の最前線について記録しておきたいと思います。アフィリエイトは趣味でないので、ありません。

基本書4選

  1. 海老沢泰久「みんなジャイアンツを愛していた」
  2. 海老沢泰久「監督」
  3. いしいひさいち「がんばれ!!タブチくん!! (2)獅子奮迅編」
  4. かざま鋭二/高橋三千綱セニョール・パ

海老沢泰久広岡達朗付きの伝記作家です。いえ、違うんですけど、そうです。1番と2番はノンフィクションと、フィクション、あれ? 2番もノンフィクションだ―1978年に東京エンゼルスという球団が広岡達朗を監督に迎えて球団創設以来の優勝を飾ります。その裏面史です。どっちが。あれ? 1番? いうならば、1番は、歴史書です。2番が、パラレル・ワールド。

2番には、1番の史実がアレンジされて創作されています。いまのみなさんのことばでいうなら、1番の海老沢泰久自身による二次創作が、2番です。あれ?

一例だけ引きます。

たとえばランナー一塁で相手がバントで攻撃してきたとする。この場合、まず一塁手三塁手と投手が打者の目前まで猛烈にダッシュする。そして二塁手が一塁、遊撃手が二塁、三塁は捕手がそれぞれカバーリングする。なによりもランナーを二塁で殺すことが目的なのだが、もし結果的にバントが成功したとしても、打者とランナーにこのシフトが与える心理的な圧迫には計りしれないものがあるだろう。だが、だれかひとりでもこのシフトに忠実でない野手がいたとしたら、これほど危険なシフトはない。どこかのベースがひとつか、あるいはふたつ、ガラ空きになってしまうのだから。

「みんなジャイアンツを愛していた」(前掲書P.21-22)

これが1番です。

ブレーブスとしては、やろうと思えば何でもできるチャンスだったが、2点差の9回というイニングを考えれば、まずバントで同点のランナーを2塁に送るというのが最良の策で、ジャイアンツとしてはそれがいちばんいやだった。

日本シリーズ史上に残る有名なプレーが実行されたのは、この直後である。はじまりは、ベンチから出た川上の球審に対するつぎの声だった。

「ピッチャー、堀内」

スタンドがどっと沸いた。いまや堀内のフィールディングのすばらしさは、日本シリーズに足を運ぶくらいの野球ファンなら誰でも知っていたので、堀内の登場によってつぎの展開が俄然波乱に満ちたものとなったのである。西本(幸雄監督。引用者注)は、2塁のランナーがサードで殺される危険を冒してまでバントのサインを送るだろうか。それともバントをあきらめて強攻策に切りかえるだろうか。

 「最高のシーズン」(『ただ栄光のために――堀内恒夫物語』新潮文庫P.227-228)

これは、上には引いていませんけれど1番のグループです。

無死1、2塁。はじめてのチャンスらしいチャンスだった。ヘミングウェイにかえてバントのうまい打者を送ることを広岡は考えた。堀内はフィールディングがうますぎる。下手なバントでは3塁で確実に殺されるのが明らかだった。しかし、リリーフ投手のことを考えて頭を痛めた。しばらく迷っていると長島がベンチを出てマウンドに歩いていくのが分った。ほっとした。ここは広岡の作戦を予想して、ピッチャーは堀内でなければならない。しかし替えるだろうと広岡には思われた。長島は守ることより、ここで抑えきってしまうことしか考えていないにちがいない。

<さあ替えてくれ>

堀内以外なら誰でもよかった。彼よりフィールディングがうまいピッチャーはいないのだ。普通のバントをすればランナーはきっと進塁できるだろう。やがて堀内がしぶしぶマウンドを降り、新浦の名前がアナウンスされた。広岡はヘミングウェイをそのまま打席に送ってバントさせた。

『監督』文春文庫P.194-195

これが2番です。伝わってないな(笑)。まあいいです。秋冬の神保町の読書会を覚悟しておいてください。

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基本的に、広岡達朗研究は1番と2番でこと足れりとされてきたところがあります(だれによって?)。ところが、数年遅れ、ほとんど同じ時期に、実はコミカルな広岡達朗像というのが提示されています。それが3番。私が、やくみつると異なる、すばらしいいしいひさいちの慧眼がすばらしいといつも思うのがこの部分です。広岡さんは「がんばれ!!タブチくん!! (2)獅子奮迅編」作中でけっこうコケにされています。

いしいひさいちとは別に、やはり似た時期に、広岡達朗のユーモラスな表情を活写したのが4番です。同時に80年代のパ・リーグの雰囲気を巧みにいまに伝えています。ちなみに、4番の原作者、高橋三千綱は早稲田の英文科を中退の後に、すばらしい東京スポーツ新聞社に入社しています(黄金頭さんのことが喉まで出かかっているのですが、今回は禁欲します)。

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だいたいこの4冊/シリーズを、1年間365日のうち240日、各書1日1回通読すれば、広岡達朗研究の骨子は叩き込まれたといっていいでしょう。骨子ができたなら、戦後スポーツ史のどこ/何をどう読んでも、広岡達朗と結びつけて考えることができます。

それを10年、できれば20年、続けてください。

ウィキペディアプロ野球関連のどの項目を見ても、広岡達朗と力まず、自然に線を結べるようになれば、まずは免許皆伝といえるでしょう。西武ライオンズ監督就任要請をうけたときに浅利慶太とゴルフをやっていたことまではさすがに出題されません。ご安心ください。

近年の出色映像作品

広岡さんの末っ子としてのよさ、甘さ、明るさがようやく21世紀になって自然に現れるようになりました。それが「平成日本のよふけ」です。

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基本書4選、さすがの海老沢泰久でも、引き出せていない話がちらほら紹介されています。これは海老沢泰久と笑福亭ちんこ鶴瓶のインタビュアーとしての芸風の違いによるもので、基本書4選の3番と4番に近いところに布陣します。私はこの(笑福亭鶴瓶によるほぐし技を受けられた)番組を、広岡さんにとって実に幸せなことと思います。

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基本書に続く参考文献

今日は言及を避けますが、他にも主だったところをいくつか挙げておきます。

  1. 海老沢泰久西武ライオンズプロ野球グラフィティ」
  2. 海老沢泰久「ただ栄光のために―堀内恒夫物語」
  3. 広岡達朗「私の海軍式野球」
  4. 川上貴光「父の背番号は16だった」

補遺1

マリーンズGM時代のことは私とは別の研究者の方にお任せします。私にとっての広岡達朗像というのは85年にタイガースとの日本シリーズに敗れて退団するまでの広岡さんです。研究者には、どうにもならず愛してしまう対象範囲と、向き不向きというのがあります。

補遺2

かつてのように必死でプレーしなくても、やすやすとジャイアンツに勝てるようになったのだ。どのチームにも、もう到達すべき最終目標のチームはなくなった。リーグ全体の野球が荒れるのは当然だった。

「誰かが何かしなければならない」

と広岡は思った。

前掲書1番P.104

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幻冬舎というところから、広岡達朗プロ野球激闘史」という単行本が出ました。一般の読者の方には、まったく手にとって読むところのない本です。私のような広岡達朗研究者が「抑え」に1冊手元に留め置いておけばいい。

題名にも偽りありで、まるで広岡さんの声になっていなければ、「プロ野球激闘史」にもなっていない。平井三郎川上哲也からイチローまでの27人の新旧プロ野球選手に対する広岡さんのコメントが、薄く水増しされて大ぶりの活字と字間で編まれているだけです。

かつてのように必死でことばを紡がなくても、やすやすと世に本を送り出せるようになったのだ。どの書き手にも、もう到達すべき最終目標の作品や読者はなくなった。国中の出版が荒れるのは当然だった。

「誰かが何かしなければならない」

船橋海神はそう思いました。かくなる上は、2020年秋冬から、神保町あたりの貸し会議室で、継続的な読書会を開催するつもりです。

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