illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

童話について

その方はお嫁に行き、しばらくして、実は自分が背中に負ったかばんの中はかなしみで一杯なのではないかとふと思うようになりました。そのことは、彼女の古い記憶を呼び起こしました。幼いころから読書が好きなたちで、思い出した好きな本の中には、新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」がありました。

あるとき、かなしみにおそわれたでんでん虫は、ひとりひとり、ともだちのでんでん虫に「わたしはかなしくてもう生きていられない」と訪ね歩き、伝えます。けれど、どのともだちも次のように答えるのです。「わたしもです」「わたしもです」。

でんでん虫は気付かされます。かなしいのはわたしばかりではない。わたしは、わたしのかなしみをこえていかなくてはならない。

でんでんむしのかなしみ

でんでんむしのかなしみ

 

彼女は、この話を思い返し(おそらく読み返したのでしょう)(またあるいは、学生時代の友だちの元をこっそり訪ねたのかもしれません)、ひとつずつ、自分の力で、ときに若い配偶者の力を借りながら、家庭を築き、「家」あるいは「室」といったものを変えていこうと決意しました。その方の本には、そうは書かれていませんが、そのようにしか読み取れない匂いがふんだんにします。

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昭和53年夏のある日、私は祖母と、国道4号線那須方面へ伸びる県道の交わるあたりの道端で、駅のほうから来る車を待っていました。目当ては美智子様でした。祖母は生前あまり口にしませんでしたが、美智子様のことは好ましく思っていた節があります。

祖父は傷痍軍人で年金暮らしをしており、戦争が済んで軍用地の跡に開拓農民として入る際に「自分は金輪際、天皇と戦争のことは口にしない」と宣言したらしく、その手前、祖母は家で政治や戦争やまして天皇陛下のことは口はばかられたようだったからです。

しかし、それでも好ましく思っていたように見えたのは、小学生に上る前の孫の僕に「おじいさんは(病院で)お出かけだし、見に行こうか。減るもんじゃないし」とにこにこして、手を引いてくれたからです。テレビに移った姿に「苦労されているものねえ」とつぶやいたことも覚えています。

美智子様が後部座席にお乗りのようだということはわかりました。それよりも、沿道をなびく旗が遠くから車の進行にあわせて次第にこちらに盛り上がってくる(わー、とか、パタパタとか、みちこさまー、とかいう声や音も上がっていました)、そのような盛り上がりを見るのが生まれて初めてでしたから、大変に印象に残っております。

そういえば帰り道、「おじいさんが機嫌を損ねるといけないから」と、親類の営むあんこ屋さん(絹島屋さん)で、甘味を買って帰ったことを、いま思い出しました。もう40年も前の話です。

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私は長く、美智子様がご自身のかなしみを戒める、その転機になったエピソードとして、この話を覚えていました。しかしそうではなかった。それだけではなかった。なぜ、強くそういえるかというと、震災のときのことがあったからです。

かなしみとは、民間から皇室にお嫁に行った苦労といったような表面のことを指すのではなく、たとえていうならば悲田院のような、万民をだまって思い、だまって祈る、だまって訪問し、手を添え、声をおかけになる、その沈黙の伝わらなさ、それゆえに自らは黙して語らないことを決意される、半世紀以上に及ぶ長い道のりのことを、かつて若き日に予感されたのではないか、でんでんむしとはその重さに立ち向かう姿のことではないかと、私はいつしか思うようになりました。

橋をかける (文春文庫)

橋をかける (文春文庫)

 

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童話というのは、時を越えて、長く、絶えず、かなしみを呼び起こす触媒のようなものではないかと私は思います。

(ちなみに、私たちが美智子様を待っていた場所から駅のほうに少し歩くと、枝野さんのご実家があります。いまでも。枝野さんは、まだ弁論や法律に手を染めない、地元の中学校に通うくらいの歳だったはずです。)