illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

「復活の日」準備日記#0003

本日は夕刻の帰り、間近まちなかで「新型コロナウィルス咳だ」と直観する男性の喉払いの音を聞くとともに、市川塩浜駅の下りホームでその咳をきっかけに蜘蛛の子を散らすように行列がばらけた様子を見た、初めての日だった。

  • 新型コロナウィルスは、都下ほとんどの産業分野で感染者が出ていると見ていいだろう。ばらばらと、いろんな産業、企業、地域から出ているようだが、(自粛1)ということは(自粛2)。
  • どこに、そのための自分なりの日常生活での観測地点を持つかという話である。
  • 私の場合それは丸の内の某所と、JR武蔵野線市川塩浜駅
  • 前者については、ちょっとわけありすぎて書けない。後者は、これは比較的ロジックの追いやすい話だ。コールセンターのような人員集約型のサービス業務で雇用サイクルが比較的短いこと。ということは(自粛3)。密閉した空間で、組織としては徹底した身分社会であり、構成としては雑多な出自が―現実問題として―入り交じる。
  • そして、(コールセンターにはない特徴として)ローラースケートを履いて(履かされて)、汗水を垂らし、喘ぎながら、競争を強いられ、ものに触れる。行き帰りは、貸し切りバスか、路線価のそんなに高くない電車で行う。
  • ついでにいえば、外資でも内資でも、そのサービスが私たちの暮らしにあまりに浸透してしまったために、隠蔽体質にもなってしまった。感染者の発生を、極度におそれる。(写真はこの日の朝のJR船橋駅ホーム)

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  • 「徹底した消毒、管理体制を敷いている」と、あるいはプレスリリースが出されるかもしれない。だからご心配にはお呼びませんと。

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  • 新型コロナウィルスの蔓延が惹起するもののひとつは、労働問題である。むしろ、階級問題といっていい段階かもしれない。当たり前といえば当たり前の話。
  • だとすれば、安倍晋三も、麻生太郎も、菅義偉も、(話を端折る)だれの強行をだれがどの側面から反対した、諌めた、江川紹子に電話を掛けた、というのだって、それぞれが(江川さんを除く)権力の相互補完関係にあるとみれば(与党トップなのだから当然だ)、階級問題としてみれば大差ない話。

労働者は順番に負けていく。今日、その法螺貝が鳴るのを黒船の近くで聞いた。

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追伸。危機には、普段は抑制的な、ものを書く人間の本質の一端が、増幅して現れる。黄金頭さんがハイテンションになり、私がドン引きするような暗い調子になったのは、令和の文学にとって、逆でなくてよかった。明日も出社する。斃れるのは私ひとりでいい。

そうだ、帰りに短い距離だけ乗った都営バスの窓が開いていて、風が流れていたのが新鮮だった。復活の日はまだまだ遠い。

「復活の日」準備日記#0002

安倍晋三による緊急事態宣言の日。

  • 帰り、東陽町に立ち寄る。チェーンのカレーショップの椅子が一石飛びに「お客様の健康のため」とかいう名目で着席が禁じられる。午後6時
  • 東西線下り、マスクを着用していない、目つきのよくない労務者(あえてこの語を選ぶ)が目につく。改めて、マスクを着用している人たちの供給元はどこなのだろう。
  • 19時前、船橋駅シャポー口でサイネージを2枚見て(これも)改めて、私たち日本人の従順な手際のよさに心の中で頭を抱える。
  • 「伴う」のである。主体性や責任にモザイクがかけられる。もちろん、この用法にシャポー船橋に意図があるわけではなかろう。ただの慣用、どこかで目にしたお役所言葉か、過去の類似の文書から「これなら無難」と引いたものだろう。

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  • よりショックを覚えたのは、上のサイネージから右に90度のところに立てられた、次。「伴」った上に、「お客様と従業員の健康と安全確保を目的に」と、いわずもがなの名目が掲げられている。(無意識下に)別の目的、「本当はこの名目がなければ成り立たなかった」感が、嫌ーな感じで、出されている。

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  • そして、「お客様にご迷惑をお掛けする」のはわかっているが、「ご理解」と「ご協力」を求めている。責任系統が上と下に、いつものやり方でかけ流し源泉の湯から何キロだか知らないけれども、じゃぶじゃぶされている。
  • 「シャポー船橋は大丈夫です」と、高らかに宣言してほしかった。
  • しかし、繰り返すが、これは私が愛するシャポー船橋の責任ではない。
  • 実はこれと同じように洗練を極めた、社内通達文書が、弊社(日本法人)でも複数出され、結局のところ責任の所在がぼかされているために、読解力のある若手ほど、どの文言に、どのような体系と優先順位をつけて従い、判断すればいいか、不満をもつシーンが本日みられた。
  • 私は、特に本日は身近なところで自粛要請と緊急事態宣言の複数の解像度から眺め直してみたつもりだが、そのどの度数、切り取りをもっても、天皇制と無責任の体系の再発をみて、(率直にいえば)うれしく、空恐ろしくなり、記録しておこうと思った次第。
  • 復活の日は、だいぶ遠いようである。

「復活の日」準備日記#0001

昼日中のつぶやきはtwitterのほうへ。そちらでは書ききれないことやtwitter以外の活動時間帯に頭を過ぎったことをこちらへ。

  • 船橋から丸の内に向かう経路はいくつかある。いろいろあって、東西線あり、京葉線ありで向かうのだが、京葉線(武蔵野線)の道中停車駅は、いろいろと味わいが深い。
  • 嫌味ないいかたになったら申し訳ない。山本周五郎青べか物語」の浦粕の風情と、その(昭和初期からの)延長にある労働者の街、労働者そのものが、乗ったり降りたりする。たとえば、市川塩浜の通過前後には、Amazonの物流倉庫が見える。
  • 彼らの、年齢層はさまざまであるが、衣服が、年を追って貧しくなっている。このことはよくない兆しだと2015年以来、感じてきたが、ここ2週間、加速を覚える。概ね、まず汚くなるのは男性の中高年、次が男性の比較的若年層、そして、女性。髪留めや、履物にも見て取れる。見間違いであってほしい。

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  • おそらく、首相私邸に潜り込んだ嶋田えり(しまえり)は前触れで、閣僚のひとりかふたりが凶弾か、凶刃に倒れるだろう。このままいけば、であるが。都市部での暴動かもしれない。
  • 我慢比べの期間はどれくらいか。ふた月、もつだろうか。
  • 一形態として、ネットカフェから押し出された住所不定者が、オンラインの投げ銭で使嗾されるような、社会階層のひずみや断絶を顕にする姿をとるのではないかと思う。

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  • 私もこんな日乗を書き留めるのはいかがなものかと思う。同時に、危機に押され、感受性の荒れた底近くを晒すのはいましかなかろうとも思う。

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  • 家路に着こうとする。窓辺に光るものがある。ふたりのねこ、その眼だ。この状況に、ねこが家で待っていてくれる。待っていてくれるのか、私が許可なく居座りに戻っているのかはわからない。
  • 換気をした。もちろん、ねこのため。

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  • ではまた明日。生きていたらお会いしましょう。にゃーん😺😺😺
  • (追記)観察範囲問題だが、twitterタイムラインの見え方が4月に入ってから変わった気がする。

おれのくーちゃん

くーちゃんが夜半や明け方に(昼間は寝ている)、僕の近くまで「にゃーん😺」と声をかけに来る。「おなかすいたにゃー😺」だとずっと思っていたのだが、違う。くーちゃんは、カリカリを入れ替えても、よほどおなかを空かせているとき以外は、すぐには口をつけない。

そしてぐるっと部屋をひとめぐりして、もとの場所に戻っていく。

それならなぜ、「にゃーん😺」と来てくれるのか。このときに、「それなら来なければいいのに。何がしたいのだろう」と、思うような躾をされないでよかった(親にではなく、下僕として、つまりくーちゃんに、という意味で)。

くーちゃんには、僕はそんなことは思わない。「何かある」と思い、時に身を任せる。

*

くーちゃんは、ねこパトロールの一環として、カリカリの減少を下僕に伝えてくれる。世界の秩序がどこかおかしいのである。それを、察知して鳴くのだ。くーちゃんが、世界がどこかおかしいといったら、おかしいのである。

このことは、お水にも、トイレにも、部屋のお掃除にも、くーちゃんが好んで位置取りをするダンボールについてもいえる。下に2部屋ある中央、中ほどでありながらアイリスオーヤマのパイプ棚に背を寄せられる辺り、部屋全体と、下僕を見渡せる場所を、くーちゃんは好む。

*

くーちゃんは、絶えず僕を見守って、目配せをし、適度な距離を確かめ、寝息を立てる。下僕はこうして、自然に躾けられる。

従って、ごくたまに、くーちゃんのダッシュと下僕の足が鉢合わせをして、当たってしまい、これまでの累積回数を数え(5)、「しぬしかない」とツイートするのは、ボディガードたるべき下僕の怠慢、不注意、不履行によって、内側から世界秩序が危機に瀕するためである。

そんなときは身をかわされたとしても、びっくりして黒目がちになったくーちゃんを抱き寄せて、「痛いの痛いの飛んでいけ」を総動員するほかにない。

優しくて、しばらくすると許してくれるくーちゃんに、ものすごく反省している。もっといえば、くーちゃんは、僕が神と崇め愛するので、神を任じるようになった可能性がある。

くーちゃんには、ほかの(下僕を採用する)可能性があったはずだ。そこに、無理をいって割り込んだのは僕である。

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おれのくーちゃん。

宇都宮の(90年代)飲み屋街の話

旧市街の中ほどを、釜川という、昭和57年の氾濫ののち数年かけて、ようやく治水が一段落した暴れ川がございまして、その川沿いに、ちょうどこの、宇都宮市街をやや北西は二荒山(ふたらさん)のほうから南東の新地、中河原、もういっぽんの宮のシンボルであります田川(たがわ)を越えて、東の新々地、簗瀬(やなせ)に向かって歩いていきますと、宇都宮の赤線と青線をこう、ひとめぐりできる仕掛けになっているわけでございます。

https://images.app.goo.gl/H7vJXnsvg8nfWSiV9

*

私はこの、釜川が大好きなのであります。生まれ育ちは鬼怒川に縁がある。第一の産湯を使ったのが鬼怒川。第二の産湯は釜川です。鬼怒川というのは奥日光に端を発し、宇都宮の東を南北に走って茨城と千葉のあたりで坂東太郎、利根川に注ぐ、いわば宇都宮の川のシンボル(田川は旧市街の、鬼怒川は広域の)なのですが、私は宇都宮の文化は釜川が育てたと強く信じております。

少し前に別の話題でそのことに触れました。

dk4130523.hatenablog.com

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写真は7年前、2013年4月9日の釜川であります。黒い縁取りになっているのはInstagramに媚びた私の失態。大した川じゃないんですよ。川幅はほんの数間(けん)、護岸も流れも低く、これは治水工事でだいぶよくなった。そこに、昔からの方が桜を植えた。咲いた。震災のあと、ひとめ見ておきたくて。

少し、上流に歩くと、こんな風情になっています。

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倉敷的な(到底、及ぶべくもありませんが)美観地区です。

*

1996年97年、院に入って、研究がうまくいかないんですね。で、アイデンティティというやつの、根本的な問い直し、洗い直しを迫られた。前にも書いたかもしれませんが、週に2度ほど、ばあさんの見舞いで本郷の4限を終えたあと新幹線に乗って、宇都宮に向かった、病院は田川沿いにあります。

dk4130523.hatenablog.com

少し前には、じいさんとよく歩いて見舞った、そのじいさんも亡くして、ひとりで川沿いをとぼとぼと。駅の花屋で花を買ってね。

見舞った後はバスに乗って家に帰ればいいんだけれど、19:30、下手すりゃ20:00を回っている。家には互いに気に食わない父親がいる。

*

まず川蝉に電話をかける。

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翡翠、じゃない川蝉、てのは、宇都宮の古くからある鰻屋で、ばあさんの病院から駅方面、少ぅし北に足を戻したところにある。ここで、うなぎを食う、食わせる、が、おれらのステータスです。医者や議員の倅しかこないようなところ。落ち着いた雰囲気と、白焼きの味を覚えちまったのよ(お前ら行くなよ。絶対に行くなよ。お前らは客単価にうるさいスパゲティ屋だとか、ウェブで見つけた餃子屋に行ってりゃいい)。

電話かけると「あら、xxさんの坊っちゃん、最近ご無沙汰で」なんて女将が席(まあ、たいていは2階の座敷)を空けてくれる。

腹ごしらえして、22:00前か。

*

泉町に、藤咲って女将がいてね。電話をすると、カウンターの隅に席をひとつとっておいてくれる。やってないよ。やってない。当時21くらいで、おれはむしろその母親に色目を使われたほうだ。やってないって。21たって、16からその道に入っているから、客あしらいなんて、おれの敵う幕はない。その、カウンターの隅で、当時はまだ飲めた、ビールと黒霧島で、ちびちびやりながら、論文を書く。やっぱり、いまと同じ岩波古語辞典をショルダーバッグに収めてさ、山際淳司も、もちろん。

うまくいかない、26時を過ぎる。そのまま店に寝かせてくれたり、相乗りして送られた、女将の家の離れに寝せてくれて、ばあさんの朝食付きで送り出してくれたり。

その世界のおねえちゃんたちが、家の最寄りとはふたつみっつ離れた駅をあえて選んで店をもったり、アルバイトで働きに来たりすることを、おれは遅まきながら知った。当たり前、最低限の処世術なんだが、23、24にもなって、それすらも知らないわけ。

*

金曜夜に行くと、翌朝は土曜だ(あたりめえじゃねえか)。

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泉町から駅に引き返す、その途中に、こんなシャレオツなカフェとか。

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こんな、女坂に寄り道をする。

*

夕べ、地元の市外局番からブルブル電話があった。おそるおそる出て誰何したところ、藤咲の女将からだった。てっきり、結婚して収まったかと思ったら、いまでも店に立つらしい。しばし旧交を温めたのち(やっていない)、

そういえば、xxさん、作家になりたいっていってたわよね。あの夢どうしたかしら。 

おれは思わず絶句して、

その節はたいへんお世話になり申した。

かつかつ、そう声を絞ったら、

あらいやだ。時間があったら来てよね。こっちでもコロナウィルスにやられちゃって。お店、大変なのよ。安倍さんはあたしたちにはお金くれる気ないしさ、まったくもう。

これにおれは、ああとか、うんとか、相槌にならない相槌を打ち(ほんとうは、訊きたいことが山ほどあった)、

よくまあ、おれの電話番号を。

と、うろたえた、精一杯、残存する理性で応答したところ、

あはは。プロですから。元気な声を聞けてよかった。じゃあね。待ってるからね。

*

以上、書き記し(残し)ておきたいと思った次第。

萌えると推すの間

めんどくさいので自分とこ以外のリンクは貼りません。

dk4130523.hatenablog.com

ハ行上二段活用動詞「恋ふ」の助詞は、6-7世紀およびそれ以前は、「に」だったろうといわれています。それが8世紀ごろから助詞「を」を伴う用法が次第に一般化してきた。自動詞から他動詞への転換です。

ひとくちに、上代(奈良)では「君ニ恋ふ」であり、平安以降は「君ヲ恋ふ」だったというのが大野晋の示した見取り図です。

君に、胸キュン。-浮気なヴァカンス-

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あるいは「君(ガ)恋し(い)」。昔の人(奈良平安の人のことです)はやたらと「ガ」を使ったりはしません。意識の働きは、「君がいて」「恋しいと思う」この2つの間には自然な断絶、非連続があります。

君恋し

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要するに対象をどうこうするという主体の意思は、恋とはちょっと(大いに)違うものです。対象をどうこう(しようと)する恋は、私にいわせれば、露骨な性描写です。

*

ともあれ、このように、人々の意識がことばの用法を変えていく、それに呼応して地層のほうも変わっていくのは、100年とか200年とかあるいはもっとそれ以上の時間を要します。

大野先生の描く見取り図って、ある程度、勉強を進めて初めて気づくことなのですが、このように壮大な視角とダイナミズムがあるんですね。

ちなみに、「恋ふ」とは、異性を慕わしく思う意識の働きです。慕う、懐く、請(乞)う(ここにいてほしいと願う)。願うなんかもそうで、願うって、誰にします? 相手にですか、天にですか? 私は、願いは天にするものと思うほうです。

*

で、だ。好きなものをむやみに推したりするなよ、おまえら。

アイドルは天降ってくるものでしょう。だからそこに、慈雨が生まれ、「尊い」「ありがたい」という感じ方が生まれる。私もたまには大きすぎる主語を用いてみたいことがあります。日本人の感受性の基底には、古来「自然(ニ/ナ)」と「受動」が、分かちがたく、ある。

*

萌えるは、自分たち「おたく」が狩猟/動物の側にはなく、慈雨を受ける受動/植物の側にあることを、本能的かつ本質的に捉えた絶妙の語法でした。ただ、萌えて兆すだけです。あー、きもちわるい。草不可避。しかし、単に萌えているぶんには、アイドルを傷つけることはありません。草食で何がわるい。

推すなんて能動をいいだしたら、「つながる」(まだいい)「アイドルをハントする」(だめでしょう)まであっという間の地続き。それが、いま私たちの視界をかすめる、地獄の一形態です。

*

(公開後の追記)

君が好き

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まったく関係のない話

たまにブックマークコメントで(関係ない話を。)と開陳する流れの、今日は拡大版です。

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2002年晩秋から2003年、2004年にかけて私は「医者ってさ…」「無菌の国のナディア」の取材に入れ込んでいました。当時、私以外にも、私の知らない、何の関係もない、複数のチームが作品化に向けて動いていたようです。ようですというのは、後になって、よよん君のお母様からちらっと聞かされたためです。取材活動の中で直接に対面したり目撃したりすることはありませんでした。そして今日まで、ありません。

取材のハードルが高かったのは、何だとお思いになりますか。

それは、「ようちゃんのことは、物語にするようなことではないんです」というご家族の声、「あんたらが思うてるような美談とはちゃうねん」という友人の方たちの声です。そのような声をひとつずつ埋めたり削ったりするのが、取材活動です。でした。です。

*

よよん君が2ちゃんねるにやって来た2002年2月20日を1と起算すると、亡くなった10月2日は225日目にあたります。反対に、100日目は5月30日です。

5月28日ですが、よよん君は次のように書き込んでいます。

388 名前: 1 ◆DFVNdaek 投稿日: 02/05/28 16:43 ID:+jTi4/fq
やっとネットにつなぐ事ができたー!

胸の痛みはまだややありますが、吐き気はおさまってきて喜んでましたら・・。
今度は口内の粘膜がボロボロになって痛くて物が食べれなくなってまいました・・。
また「ひとつよくなればなにかひとつでる」がでてしまいました。
白血球はいまだ0、血小板は2日に1回の輸血が必要です。
粘膜障害はやくなおってくれー、そのためにもはやく白血球ふえてくれー。

ふとおもったのですが血液G先生の書き込みがここ数日ないですね。
お忙しいのならいいのですが、体の調子が悪いのではと心配です。

私はこの彼の書き込みが大好きです。そう、昭和記念公園近くの喫茶店で、取材に応じてくださった血液グループ先生にお伝えしたら、ぽろぽろぽろぽろ、涙をこぼしていらっしゃいました。もう、15年以上も前のことです。

*

彼の余命が、結果的に残り100日になったのが、6月25日。このころ、彼、よよん君はまだ2ちゃんねるに足を運ぶことができていました。

487 名前: 1 ◆DFVNdaek 投稿日: 02/06/26 05:45 id:dSAd+98Q
移植まであと1週間と1日になりました。
ただ、今週はじめの採血にブラストが2%ほどでてしまったようです。
・・・・ショックです。まさか非官界で移植をうけることになるなんて・・・。
ショックで泣いてばかりです。
明日からまず服用で抗がん剤を飲み始め(粉薬らしいです)、その後点滴をするそうです。
抗CD20剤は効果が長すぎて新しいドナー細胞の免疫にも作用してしまうので
使用しないといわれました。

治りたい。今度こそ治りたい。元気になりたい。
どんなつらい副作用だって我慢する。だから、だから今度こそ治って欲しい。
だけど・・・なぜ今になってまたブラストがでてしまう!?
ブラストをかかえたまま移植するのは成績が悪いという悪い事しか思い浮かべることができない・・・。
怖い。激しく怖い。涙が止まらない。
もう移植は目の前なのにこんな心のままでは・・。
俺は、俺はまだ希望をもってもいいですか?治る可能性を信じてがんばっていいですか?なにか言葉を・・・ください。

彼はこれが再度の移植になります。そのことの意味は記しません。そうして、移植日の7月4日、その2日前の7月2日が、よよん君が私たちの前にインターネット回線をたどって姿を見せてくれる最後の機会になりました。

534 名前: 1 ◆DFVNdaek 投稿日: 02/07/02 13:17 id:Mrn6DZQX
こんんちは、1 ◆DFVNdaekです。
今落ちている点滴が終了すれば、移植前処置終了になります。
少し吐き気が目立つのと、痛み止めの点滴の副作用のせいか
手がぶるぶるふるえて力が入らなかったりするのがつらいです。

入室は明後日の4日の午後2時くらいになるとのことでした。
ノートPCは持ち込み駄目ーということなので、繋ぐことはおろか
中の状態を記録して一気にUPしようと思っていたのですがそれも
きつそうです。メモ用紙にあったことなどを記録しときますね。
3~4週間くらい2chも覗けないことになってしまいそうです。ううう・・・。

まだ後2かありますが、無菌室でもマターリと回復まって、治る力を信じて
がんばってきますね。絶対自分の白血病は治るんだー。治るぞー。
元気になって退院するぞーと。

まだまだつらい副作用なでがでてくるでしょうが、負けません。

*

100日後に彼は亡くなった。もうこの18年、ずっと日数を数えています。だいたいここ、というのが円周率のように私にはわかります。聡明な彼は、それが100日後とは思わなかったでしょうが、限りある命であることをわからなかったはずがありません。

ある日、事前の通告なきままに迎える生の終わりだから、私たちは日々を大切に生きるのでしょうか。反対に、終わりの予感を受け止めているから、私たちは日々を大切に生きるのでしょうか。

物語として学んだから、でしょうか。

*

私には、どの説も正しい行いであるとは、とても思えません。人がいまを、今日を生きる位相は、それらとは別のところを下支えし、根ざしている。日々を大切に生きることは、友だちを事故で亡くした人の専売特許でしょうか。実際、取材の過程で、よよん君の親友のひとりから、そう問われたことがあります。

「知らんでもいい、他人の生き死にに、首を突っ込むより、他にやることがあるんとちゃいますか。お忙しい仕事なんでしょう?」

私も口惜しくて、「友だちを病気で亡くした方だけのものでしょうか。この話は、そうではない何かがあります。いまここで証明はできませんが」と返し、食い下がりました。

その日の取材を終え、私は蒼い顔をして、滋賀草津から帰途についた、冷や汗で湿った手のひらを新幹線の席でまじまじと見つめ、頭を抱え、前の席に打ち付け、前の席の方に睨まれたことを覚えています。2003年春の、ちょうどいまくらいの季節、いえ、そう、ずばりお彼岸でした。京都西陣にある、彼のお墓参りの帰りのことです。

*

18年が経ちました。(`・ω・´)シャキーン

白状すれば、だれか出版社でも広告代理店でも、○○制作委員会でも、声をかけてくれないかなと思わないでもありませんでした。手元には複数稿があって、こういっては何ですが、カクヨムに公開した版は、もっとも生々しく、洗練の対極にある、「研究ノート」の下書きの下書きです。枠が与えられれば、もうちょっと、商業ベースに乗せる書きようもある。私だって、私塾で論文を社会人や院生をはじめ教えて四半世紀、現役の産業翻訳者ですしお寿司、編集者経験、雑誌掲載歴、受賞歴、二次選考通過歴もあるんざますのよ奥様。

でもそんな口触りのいいことをやったら、負けます。

そのような、よよん君への礼を失したことは、少なくとも私にはできない。あるいは、そのように「できな」くなる道のりこそが、私がこの件に関わった、生きる意味です。

*

よよん君は私を知らない。

知らないけれど、私は彼を友だちだと思っています。いくら何でも、もうそろそろ、そう名乗りを上げる資格くらいはあるでしょう。

そのようにして、インターネットを介し、何の接点もなかった者どうしが、生をつなぎ、声をかけあい、今を確かめあう。思えば、めちゃくちゃに難しい注文です。

でも、よよん君は、そのことを願ったんです。彼が願わなければ、私だってもっと平易な道を選んで歩んでいましたさ。同時にその生々しい過程は、彼の礼法に倣い、下手だろうが何だろうが、今ここに刻む性質のものなのです(そのことを私は後に黄金頭さんを通じて確認することになります)。

*

ともあれ、私が下手で生煮えなことが幸いし、この物語は、まるで(都合のいい勘違いですが)私のためのサンクチュアリを、なぜか、保持してくれている。「任侠」「菱」と書いた親切なビニールシートが、桜の下に毎年、敷いてあります。

その延長上に、私は、この物語は、大手出版社や広告代理店には、渡してはならないものだと、なんというか、直感しています。「電車男」になりそうな局面も、2004年2005年ごろ、ないではなかった。

ご家族や、私に辛辣に当たったはずのよよん君の友人が、それら(ネット由来のコンテンツに飢えたハイエナたち)の取材申し込みを跳ねのけ(てくれ)たとは、後になって知ったことです。

*

こんなことを書くつもりではなかった。他に、書きたいことがあった、気がします。また、書くかもしれません。