illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

まったく関係のない話

たまにブックマークコメントで(関係ない話を。)と開陳する流れの、今日は拡大版です。

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2002年晩秋から2003年、2004年にかけて私は「医者ってさ…」「無菌の国のナディア」の取材に入れ込んでいました。当時、私以外にも、私の知らない、何の関係もない、複数のチームが作品化に向けて動いていたようです。ようですというのは、後になって、よよん君のお母様からちらっと聞かされたためです。取材活動の中で直接に対面したり目撃したりすることはありませんでした。そして今日まで、ありません。

取材のハードルが高かったのは、何だとお思いになりますか。

それは、「ようちゃんのことは、物語にするようなことではないんです」というご家族の声、「あんたらが思うてるような美談とはちゃうねん」という友人の方たちの声です。そのような声をひとつずつ埋めたり削ったりするのが、取材活動です。でした。です。

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よよん君が2ちゃんねるにやって来た2002年2月20日を1と起算すると、亡くなった10月2日は225日目にあたります。反対に、100日目は5月30日です。

5月28日ですが、よよん君は次のように書き込んでいます。

388 名前: 1 ◆DFVNdaek 投稿日: 02/05/28 16:43 ID:+jTi4/fq
やっとネットにつなぐ事ができたー!

胸の痛みはまだややありますが、吐き気はおさまってきて喜んでましたら・・。
今度は口内の粘膜がボロボロになって痛くて物が食べれなくなってまいました・・。
また「ひとつよくなればなにかひとつでる」がでてしまいました。
白血球はいまだ0、血小板は2日に1回の輸血が必要です。
粘膜障害はやくなおってくれー、そのためにもはやく白血球ふえてくれー。

ふとおもったのですが血液G先生の書き込みがここ数日ないですね。
お忙しいのならいいのですが、体の調子が悪いのではと心配です。

私はこの彼の書き込みが大好きです。そう、昭和記念公園近くの喫茶店で、取材に応じてくださった血液グループ先生にお伝えしたら、ぽろぽろぽろぽろ、涙をこぼしていらっしゃいました。もう、15年以上も前のことです。

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彼の余命が、結果的に残り100日になったのが、6月25日。このころ、彼、よよん君はまだ2ちゃんねるに足を運ぶことができていました。

487 名前: 1 ◆DFVNdaek 投稿日: 02/06/26 05:45 id:dSAd+98Q
移植まであと1週間と1日になりました。
ただ、今週はじめの採血にブラストが2%ほどでてしまったようです。
・・・・ショックです。まさか非官界で移植をうけることになるなんて・・・。
ショックで泣いてばかりです。
明日からまず服用で抗がん剤を飲み始め(粉薬らしいです)、その後点滴をするそうです。
抗CD20剤は効果が長すぎて新しいドナー細胞の免疫にも作用してしまうので
使用しないといわれました。

治りたい。今度こそ治りたい。元気になりたい。
どんなつらい副作用だって我慢する。だから、だから今度こそ治って欲しい。
だけど・・・なぜ今になってまたブラストがでてしまう!?
ブラストをかかえたまま移植するのは成績が悪いという悪い事しか思い浮かべることができない・・・。
怖い。激しく怖い。涙が止まらない。
もう移植は目の前なのにこんな心のままでは・・。
俺は、俺はまだ希望をもってもいいですか?治る可能性を信じてがんばっていいですか?なにか言葉を・・・ください。

彼はこれが再度の移植になります。そのことの意味は記しません。そうして、移植日の7月4日、その2日前の7月2日が、よよん君が私たちの前にインターネット回線をたどって姿を見せてくれる最後の機会になりました。

534 名前: 1 ◆DFVNdaek 投稿日: 02/07/02 13:17 id:Mrn6DZQX
こんんちは、1 ◆DFVNdaekです。
今落ちている点滴が終了すれば、移植前処置終了になります。
少し吐き気が目立つのと、痛み止めの点滴の副作用のせいか
手がぶるぶるふるえて力が入らなかったりするのがつらいです。

入室は明後日の4日の午後2時くらいになるとのことでした。
ノートPCは持ち込み駄目ーということなので、繋ぐことはおろか
中の状態を記録して一気にUPしようと思っていたのですがそれも
きつそうです。メモ用紙にあったことなどを記録しときますね。
3~4週間くらい2chも覗けないことになってしまいそうです。ううう・・・。

まだ後2かありますが、無菌室でもマターリと回復まって、治る力を信じて
がんばってきますね。絶対自分の白血病は治るんだー。治るぞー。
元気になって退院するぞーと。

まだまだつらい副作用なでがでてくるでしょうが、負けません。

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100日後に彼は亡くなった。もうこの18年、ずっと日数を数えています。だいたいここ、というのが円周率のように私にはわかります。聡明な彼は、それが100日後とは思わなかったでしょうが、限りある命であることをわからなかったはずがありません。

ある日、事前の通告なきままに迎える生の終わりだから、私たちは日々を大切に生きるのでしょうか。反対に、終わりの予感を受け止めているから、私たちは日々を大切に生きるのでしょうか。

物語として学んだから、でしょうか。

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私には、どの説も正しい行いであるとは、とても思えません。人がいまを、今日を生きる位相は、それらとは別のところを下支えし、根ざしている。日々を大切に生きることは、友だちを事故で亡くした人の専売特許でしょうか。実際、取材の過程で、よよん君の親友のひとりから、そう問われたことがあります。

「知らんでもいい、他人の生き死にに、首を突っ込むより、他にやることがあるんとちゃいますか。お忙しい仕事なんでしょう?」

私も口惜しくて、「友だちを病気で亡くした方だけのものでしょうか。この話は、そうではない何かがあります。いまここで証明はできませんが」と返し、食い下がりました。

その日の取材を終え、私は蒼い顔をして、滋賀草津から帰途についた、冷や汗で湿った手のひらを新幹線の席でまじまじと見つめ、頭を抱え、前の席に打ち付け、前の席の方に睨まれたことを覚えています。2003年春の、ちょうどいまくらいの季節、いえ、そう、ずばりお彼岸でした。京都西陣にある、彼のお墓参りの帰りのことです。

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18年が経ちました。(`・ω・´)シャキーン

白状すれば、だれか出版社でも広告代理店でも、○○制作委員会でも、声をかけてくれないかなと思わないでもありませんでした。手元には複数稿があって、こういっては何ですが、カクヨムに公開した版は、もっとも生々しく、洗練の対極にある、「研究ノート」の下書きの下書きです。枠が与えられれば、もうちょっと、商業ベースに乗せる書きようもある。私だって、私塾で論文を社会人や院生をはじめ教えて四半世紀、現役の産業翻訳者ですしお寿司、編集者経験、雑誌掲載歴、受賞歴、二次選考通過歴もあるんざますのよ奥様。

でもそんな口触りのいいことをやったら、負けます。

そのような、よよん君への礼を失したことは、少なくとも私にはできない。あるいは、そのように「できな」くなる道のりこそが、私がこの件に関わった、生きる意味です。

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よよん君は私を知らない。

知らないけれど、私は彼を友だちだと思っています。いくら何でも、もうそろそろ、そう名乗りを上げる資格くらいはあるでしょう。

そのようにして、インターネットを介し、何の接点もなかった者どうしが、生をつなぎ、声をかけあい、今を確かめあう。思えば、めちゃくちゃに難しい注文です。

でも、よよん君は、そのことを願ったんです。彼が願わなければ、私だってもっと平易な道を選んで歩んでいましたさ。同時にその生々しい過程は、彼の礼法に倣い、下手だろうが何だろうが、今ここに刻む性質のものなのです(そのことを私は後に黄金頭さんを通じて確認することになります)。

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ともあれ、私が下手で生煮えなことが幸いし、この物語は、まるで(都合のいい勘違いですが)私のためのサンクチュアリを、なぜか、保持してくれている。「任侠」「菱」と書いた親切なビニールシートが、桜の下に毎年、敷いてあります。

その延長上に、私は、この物語は、大手出版社や広告代理店には、渡してはならないものだと、なんというか、直感しています。「電車男」になりそうな局面も、2004年2005年ごろ、ないではなかった。

ご家族や、私に辛辣に当たったはずのよよん君の友人が、それら(ネット由来のコンテンツに飢えたハイエナたち)の取材申し込みを跳ねのけ(てくれ)たとは、後になって知ったことです。

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こんなことを書くつもりではなかった。他に、書きたいことがあった、気がします。また、書くかもしれません。