めんどくさいので自分とこ以外のリンクは貼りません。
ハ行上二段活用動詞「恋ふ」の助詞は、6-7世紀およびそれ以前は、「に」だったろうといわれています。それが8世紀ごろから助詞「を」を伴う用法が次第に一般化してきた。自動詞から他動詞への転換です。
ひとくちに、上代(奈良)では「君ニ恋ふ」であり、平安以降は「君ヲ恋ふ」だったというのが大野晋の示した見取り図です。
あるいは「君(ガ)恋し(い)」。昔の人(奈良平安の人のことです)はやたらと「ガ」を使ったりはしません。意識の働きは、「君がいて」「恋しいと思う」この2つの間には自然な断絶、非連続があります。
要するに対象をどうこうするという主体の意思は、恋とはちょっと(大いに)違うものです。対象をどうこう(しようと)する恋は、私にいわせれば、露骨な性描写です。
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ともあれ、このように、人々の意識がことばの用法を変えていく、それに呼応して地層のほうも変わっていくのは、100年とか200年とかあるいはもっとそれ以上の時間を要します。
大野先生の描く見取り図って、ある程度、勉強を進めて初めて気づくことなのですが、このように壮大な視角とダイナミズムがあるんですね。
ちなみに、「恋ふ」とは、異性を慕わしく思う意識の働きです。慕う、懐く、請(乞)う(ここにいてほしいと願う)。願うなんかもそうで、願うって、誰にします? 相手にですか、天にですか? 私は、願いは天にするものと思うほうです。
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で、だ。好きなものをむやみに推したりするなよ、おまえら。
アイドル産業において「ユーザー」がときに「プロデューサー様」「クライアント様」という名称で奉られるのは、「ユーザー」(消費者)と「プロデューサー」(制作者)が一体化している事態への物語消費論的な皮肉だと苦笑いさえする。/感情化する社会
— 大塚英志BOT (@EijiOtsukaBOT) 2020年3月28日
アイドルは天降ってくるものでしょう。だからそこに、慈雨が生まれ、「尊い」「ありがたい」という感じ方が生まれる。私もたまには大きすぎる主語を用いてみたいことがあります。日本人の感受性の基底には、古来「自然(ニ/ナ)」と「受動」が、分かちがたく、ある。
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萌えるは、自分たち「おたく」が狩猟/動物の側にはなく、慈雨を受ける受動/植物の側にあることを、本能的かつ本質的に捉えた絶妙の語法でした。ただ、萌えて兆すだけです。あー、きもちわるい。草不可避。しかし、単に萌えているぶんには、アイドルを傷つけることはありません。草食で何がわるい。
推すなんて能動をいいだしたら、「つながる」(まだいい)「アイドルをハントする」(だめでしょう)まであっという間の地続き。それが、いま私たちの視界をかすめる、地獄の一形態です。
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(公開後の追記)
何がニ→ヲの転換を促したかというと漢文です。
— nekohanahime (@nekohanahime) 2020年3月29日