大野晋/佐竹昭広/前田金五郎編「岩波古語辞典 補訂版」から引きます。ちなみに序は昭和49年初秋の大野晋先生によるものです。
も・え【萌え】(下ニ)《芽が出る意。類義語オヒ(生)は大きく生長する意》草木が芽をふく。めぐむ。きざす。「春雨に萌えし柳か梅の花友に後れぬ常の物かも」(万3903)。「萌、キザス、モユ」(名義抄)←moye
P.1309
引かれた歌は大伴書持(720頃?-748)です。旅人の子、家持の弟。万葉歌人のひとり。族譜に名前と、万葉に歌を残すのみで、父や兄のようには史蹟が残されていません。しかし、歌の御手前は確かなもので、上の萌えの義解に書持の歌を引いた感性は、おそらく大野晋のもの。
春雨に萌えし柳か梅の花友に後れぬ常の物かも
(試訳)春雨に芽吹いた柳と梅の花。友のように相互いに、そして時節に後れず競い合う姿は、春に限りませんね。
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いい歌でしょう? あ、書持は、かきもち、ではなく、ふみもちです。
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思考が類型化し、嘆息し、次の世代に何かを書き残してみたくなるのは、これは悪しき老いの兆候です。
萌えが、いわゆるおたくのものである/あった時期など、日本史上、屁ほどの短さです。また語義のどこに、若いころ特有の感性であることを示唆する表現が見当たります? 大野晋先生もまた、最晩年まで、若々しい感性の持ち主でした。
何歳になっても、「草木が芽をふく。めぐむ。きざす」姿は、目に入ります。そして、賭けてもいい。美しいと思う。
この文章を書いている途中で、心のなかで「それは、あなたがときめくのに必要な若さを失ったからですよ」という声がした気がした。そうかもしれない。そしてキャラクターに心をときめかせ、パトスを迸らせていられた私の一時代は、それはそれで幸せだったのだと思う。
今まさにキャラクターにときめいている人は、今という時間とキャラクターに心を寄せている自分自身の気持ちを大事にして、良い思い出を作って欲しいと思う。
黄金頭さんご贔屓の田村隆一を読んでごらんなされよ。彼は最晩年まで、精神と、ことばの若々しさを失うことがなかった。
ちなみに、動詞「ときめく」は、帝をはじめとする高貴な方の寵愛を受ける、反射光を受けて輝いていることを自覚し、喜ぶ精神の働きを表す古語に由来します。少なくとも古文世界では、ときめくに関して「心を寄せている自分自身の気持ちを大事にして、良い思い出を作」れかし、などという感覚は、見たことがありません。
「枕草子」を記した清少納言のように、ときめいちゃったら華やいでしまうものです。生きのいい形容詞がぴょんぴょんしている。
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以上、シロクマ先生の悪口ではありません。シロクマ先生風の、萌えてときめくという精神の働き《に対する評価》は、私には、きわめて現代的な病に見えます。そして、そんなつまらん老い方をしてどうするのかしらんと、いつもなら悪口辛口を垂らしてそっ閉じをするところ、今回は柄にもなく、ちょっと心配になったのでした。にゃーん😺
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コールスローサラダ(おつまみ)。 pic.twitter.com/0vt78N4p2g
— 黄金頭 (@goldhead) 2020年3月18日
(近頃はまっているらしい…)
シロクマがつまらなそうに萌えを語ったのでこれからおれがごりごりしてやる。
— nekohanahime (@nekohanahime) 2020年3月18日