おれの父親は1946年1月に、水脈としては無関係、名前だけが近親関係にある、いまは宇都宮市に組み込まれた北西部の、鬼怒川と西鬼怒川の短い交合(しそうで、しないで再び離れる)地点に、生を授かった。
10人兄弟の末の子で、2人は水子か赤子で早世したから、実質8人兄弟の8番目、大正10年生まれの長兄の實(旧字体)が(おれはこの亡くなった長兄が大好きだった)が戦争から戻って来、庭先の籠に赤ん坊がいる。
おふくろ、これはだれの子だい?
明治33年生まれの母親(よく、このブログに顔を出す、母方の婆さんではなく、父方のおれの祖母。生前、数えるほどしか交流交際のなかったことが悔やまれれる)の面影は認めたらしく、おふくろまでは分かった。けれど赤子のことは判然としない。それで尋ねた。
何いってんだい。おまえの弟だよ。茶漬けならあるけれど、どうなされるかい?
「よく帰ってきたね」とも「おかえり」ともいわず、小津映画の1シーンのような間合いも抱擁もなく、この、空白区間のような問答を、實兄(みのるあに)は、晩年、よく、楽しげに、おれに話してくれた。
おれは(わかっていて)訊く。
その赤子が? 茶漬け食べた?
聞き返すと實兄は、
お前さんの親父だよ。こんなに大きくなってなあ。あのとき、おまえ、おれの茶漬け食べただろ? おれは食いそびれた。疲れて、寝ちまったからなあ。
親父は照れて、
いやいやいやいや。
手を振るのが精一杯で、實兄は、その日、一晩だけ熟睡すると、翌朝、繰り返すが、昭和21年初春の北関東の水場と山場の接するあたりで、まず、薪を拾いに出た。
何でまず薪?
わかっていて、確かめたくて、おれは訊く。
とにかく、風呂に入りたかったんだよ。おふくろの女手じゃ勢い限度がある。赤子の湯も、何とかしなきゃならないだろう。
バラックを立て、専売公社に職を得て、宇都宮の往来に煙草屋を構えると、弟たちの学費を稼ぎ、学校を出し、自分はそのまま煙草屋の隠居を通した。明治30年に生まれた親父の親父(山師と聞く)の姿は、一族譚には出てこない。昭和の初めに、北海道から栃木に流れたとは聞く。その、實兄は、父親代わりだった。
調べきってはいないが、父親と、その父親とは、戦後まもなく、時節的にも、おそらく生死を接したのだろう。戸籍からは、追い切れなかった。
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實兄も生前、父親のことは語らなかった。戦争から戻ってきたときに、川沿いのあばら家に、いたともいなかったとも、いわなかった。いたら、何らかの形で、いたといっただろう。
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親父は「親父(父の父)の執念が成した子だ」と親類からいわれる、いわゆる田舎の秀才に近かったらしい。地元の小中から、宇都宮高校に進み、1964年に出て、当時の東京教育大に進む。専攻は哲学倫理学だったそうだが、実質的に師事したのは、家永三郎だったと何度も聞かされた。
在学中からオルグに遭い、自らもオルグの才を成し(困ったことに覇気のある男前で、滑舌なんだ)、卒業と同時に、見込まれて、敦賀の共産党支部長に近い地位を得る。おれの種は敦賀だろう。下部構造には地主の娘をということで、1972年から73年にかけて、宇都宮に、まんまと入婿することに成功する。
というのは、党の財政というのは厳しく、怪しげな訪問販売にかなり手を出した、苦労の話を聞いた。
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と、ね、せっかくの郷土史一代記が、冴えない色になる。だからおれは共産党がきらいなんだ。
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實兄は、生前の限られた対話の場で、それらに、一切、触れなかった。
あの赤ん坊が、なあ。
そういって、にこにこするばかりだった。不義理を重ねていたため、震災の後に亡くなったことも知らなかった。生まれ年からして、そうだろうとは予期していた。そのことを、数日前の親族との面会でおそるおそる尋ねて、おれは数秒、大きくて黒い、ゆっくりと回る、空調羽根の虚しい部分を見上げ、目を戻し、ぽろぽろと、涙をこぼした。
申し訳ありません。申し訳ありませんでした。
そう、父親のすぐ上の兄に、否、實兄に、頭を下げた。
實兄は、xx君(おれ)のことが好きだったからなあ。長男同士というのは、何か、こう、通じるものが、あったのかな。
それはもう、僕もです。たぶん僕はいま、實兄と同じ、長い経済内戦から戻ってきたところに立っている。
すると、
よく、これだけのことを覚えていてくれたね。
地元で教育界の要職を務めた叔父はいった。叔母は頷いた。これに、記憶力より他に取り柄がないからと返しては、野暮野垂れ兵衛になる。船橋市の市営駐車場まで案内し、この日は、そこで別れた。