illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

「復活の日」準備日記#0026 おれのくーちゃん

リストラに遭いました。外資とはそういうものとは聞きながら、振り返ってみればその洗練されたやり口には唸るばかりです。

2020年10月まではいまの給与が出ます。その後は退職勧奨に応じた割増金(というのかな。いわゆる早期退職に応じた場合と比べたらはるかに低い)。会社都合は譲りませんでした。2020年11月からは失業手当が半年。

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一昨日、親族と、長く病で意思疎通のできない父親に関して、および実家の土地家屋と、資産に関する話し合いを行いました。事業失敗の借り方が(500よりも下の)数百万円ある。知らんかった。野郎め。返すつもりです。いや、返す。土地家屋は手放さない。売ったところで二束三文。何にもならん。税金どうしてくれるんだよ(# ゚Д゚) 気分は星新一。くっそー。野郎め。

夏場の庭木草不可避も判明。おれの責任でもある。ばあさんに詫びて腹を切るしかない。

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で、昨日、最初にやったのは、植木職人さんへの連絡です。一切合切打ち明けました。他の仕事の片手間合間でいいので月いちかに、来てほしい。お代は相応(ひょっとしたら、以下)しか出せない。見習いさんの練習と思って使ってほしい。昭和51年当時24歳。おれが縁側でお茶を出した当時の見習い大工さん。いまは工務店を名乗り隠居。造園は倅が継いでいる。すぐに手配をして請け負ってくださった。

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学び、手に職をつけるなら、伊能忠敬ではないけれど、47歳夏、いまが生涯最後の機会でしょう。

Linuxサーバ構築、Raspberry Pi自然言語処理、日英中対応(グローバルコーディネーション)、翻訳とチームマネジメントの経験を軸に、エンジニアを第一希望で出してみました。古文講師は諦めます。

憎き親父が47歳は1993年。僕が駒場留年をして海外をほっつき歩いていた年です。憎い野郎と書きましたが、いま、不思議と、湧いてくるのは「立派だった」あるいは感謝の気持ちです。文学や思想を埋め込んだ不毛の責任を問うつもりで、親族面会に臨んだつもりでした。

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40数年生きてきて、心から、本当の友だちと呼べる人がひとり、ふたり、見つかったんです。ようやくです。ひとりは、横浜に隠棲して、僕より若くて、僕より(おそらく)多くの本を読んでいて、田村隆一を好んで、僕よりはるかに高い、人文の山に登っている。

そんな話もしました。家の鍵の開け方を伝え、生命保険の受取人は、天才肌で金勘定のからきし苦手な弟よりも、実務派のいとこや、婿に来た大手生保の人事部か秘書室長がいるから(いるんだなあこれが。草不可避)、相談してみるわねと叔母。

(ウン百ウン十万円は)安い住宅ローンだ。何とかなるもんだよ。だから悪いが手助けはしない。

と叔父。

それだけ知識を集めて、人並みの社会生活を送るほうが無理だ。普通ならとうに黙ってパンクしている。今日はよく、声をかけてくれた。ありがとう。

やはり叔父。万一の際のねこと蔵書を託す話をして、これから、別れた妻の筋に連絡をとり、積年のお詫びと、人畜感染症の世界的権威であらせられた義父の墓参りの算段を、立てなくてはなりません。

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あと15年生きて、くーちゃんを看取ることをいまは最優先に考え、それが済んだら、消える。その1点に、集約されました。

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一族、サイコロの目の出方によって阿呆成分に偏る。父の父は明治30年生まれ、山師の話に誘われて北海道にわたり、あっという間に素寒貧、栃木に流れたと聞きます。