illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

いわさきちひろのこと

おれの嫌いな四字熟語の筆頭近くに松本善明というのがある。

松本善明 - Wikipedia

1946年(27歳)1月、宮沢賢治ヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加したのち入党した。5月には党宣伝部の芸術学校(後の日本美術会付属日本民主主義美術研究所、通称「民美」)で学ぶため、両親に相談することなく上京した。(略)

 

画家としての多忙な日々を送っていたちひろだったが、1949年(30歳)の夏、党支部会議で演説する青年松本善明と出会う。2人は党員として顔を合わせるうちに好意を抱くようになり、ある時ちひろが言った何気ない言葉から、結婚する決心をした。翌1950年1月21日、レーニンの命日を選び、2人きりのつましい結婚式を挙げた。ちひろは31歳、善明は23歳であった。結婚にあたって2人が交わした誓約書が残っている。そこには、日本共産党員としての熱い情熱と、お互いの立場、特に画家として生きようとするちひろの立場を尊重しようとする姿勢とが記されている。

 

1950年、善明はちひろと相談の上で弁護士を目指し、ちひろは絵を描いて生活を支えた。

 いわさきちひろ - Wikipedia

いわさきちひろWikipediaから引いた。おれの嫌いな四字熟語のもうひとつ宮沢賢治が、絶妙の役回りで出てきている。

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おれの亡くなったおふくろがいわさきちひろを好んでいた。おれの生家にはおれの幼いころからちひろの絵が飾られてあった。あちこちにあった。

おれが後に好きになって家に連れてきたガール・フレンド(と呼ぶべきありがたい存在)は、おふくろにいわせると「みんな、どこかいわさきちひろの絵に面影が似ている。怖いものね。責任を感じちゃう」とのことだった。そうはいいつつ、悪びれもせず笑っていたのを思い出す。

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おふくろと親父は結婚にあたって、「ちひろと松本」流の、婚姻届とは別の誓約書を交わした。当人たちが語っていた。いまも実家の鏡台の奥底に仕舞われてあるだろう。遺品を整理したとき、古い手紙の束を見つけ、そこだけは手を付けるのが憚られ、当たり前の話だが、そのまま、引き戸を押して戻した。以来、開く者のあるはずもない。

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おふくろは共産党員の親父に、まるで松本善明ちひろをそうしたように、ペテンにかけられて、親父を婿に入れたというのがわが生家の公式史観である。じいさんも、ばあさんも、そういっていた。親父も、ためらいながら、そのことを認めないではなかった。おふくろは笑って何もいわなかった。

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2000年の4月におふくろが世を離れて21年になる。案外、公式史観が誤っていたのかもしれない。最近、何かの拍子にふと、そんなことを思う。思う歳に、おれもなったというべきか。

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おふくろは生前おれを「そんなに生き急がないで」とたしなめつつ、理解が追いつかないと「まったく、もたもたして」と笑うこともあった。震災を、コロナを、見せずに済んだことが救いだったとは、いえるかもしれない。来月、墓参りに。

新装版 いわさきちひろ画集

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