illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

「復活の日」準備日記#0043 お詫びと追記(※訂正ではございません)

スターをいただいて恐縮です。軽い気持ちで書きました。お詫びがあります。

https://b.hatena.ne.jp/cj3029412/20201107#bookmark-4693879684027774114

在学中の思い出ではないはずです。申し訳ありませんでした。

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私の父親は昭和21年(1946)に生まれ昭和40年(1965)に教育大の文哲に進み、昭和44年(1969)に卒業しました。全共闘です。卒論は安藤昌益。指導教官とはしないまでも家永三郎の薫陶を受けた。それが自慢でした。

その一方、教育大の身分で東大闘争に加わるロンダリングを行い、そのまま―詳細は聞かされておりませんが―学生時代からのアパートに残り、怪しげな商材(百科事典等)を売りさばいて活動原資を捻出し、共産党活動に充てました―これは聞いています―。その後、敦賀支部を任されました―聞いています―。敦賀でたち行かずに、在学中に出会った母の宇都宮の生家に入婿します(昭和47、1972)―歴史的事実です―。宇都宮高校1964年当時1学年300人か360人。100番前後。文系で40番代。

10人兄弟の末の子で、いちばん出来がよかった。「親父(僕の父方の祖父)の執念の成した子だ」と父方の親類はたまに会うと話します。それが終生の(まだ呼吸はありますが)自慢のひとつでした。

1978年に教育大が閉学するまで筑波にはときおり通っていたようです。それが党の関係なのか学生運動の残り火を挽いているのかはわかりません。僕は1973年に生まれて、親父がたまに家を空け、理由を周囲に―お袋も含めて―尋ねても口を濁すばかりで答えてくれなかった思い出があります。1977-79年頃だったかと思います。

また、家族で益子や笠間にドライブに出るとき、筑波に関しては聞いてもいないのに倉橋由美子パルタイ」の話をされて辟易したことも、花落つること知る多少。そんな子供には迷惑でしかない一人がたりの中で出たのが、

「長靴とリュックでぐじゅぐじゅの学内を移動した。教育大はいまでも文京区にある。筑波など」

でした。

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僕の一族は、父方も母方も、東京高等師範と東京女子高等師範が(比率として)多いです。僕をかわいがってくれた母方のばあさんは、妹ふたりのために師範学校を諦めた。妹ふたりは女子高等師範に進んで校長を勤め上げた。父方にも、父親のほかに複数名います。みんな真面目です。真面目に、地方都市で学業をそこそこ以上に修め、東京に出て、多くはまっとうな人の道を歩いた。ひとりは道を誤った。誤って、その「ツケ」を、地方の土地持ちの家に回した。もちろん、

それが自称革命家のやることとは到底思えない。恥を知るがいい。

と、何度も何度も喧嘩をしました。恥ずかしながら、家庭内の総括、政治的闘争としては本質的で純度の高いものと自負しております。

https://dk4130523.hatenablog.com/entry/2019/09/28/124101

私はだから自分がその意味で呪われた子という自覚があります。東大を目指したのは、父親と同じ筑波だけは死んでも嫌だったから。何度か、修士時代(1996-98)に足を運びましたが、ある意味で尖った抜群の環境ですね。ハマる人はハマるだろう。そう思います。申し訳ありません。

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爺さんは立派でしたよ。

大正10年(1921)に足利に生まれ、旧制足利から京都に進み(何だかうちは学歴エリートみたいだなおいコラw)、戦争で学業を諦めます。戦後に中島飛行場の跡地をただ同然に払い下げを受け、入植し、本を読みながら、ばあさんと少しずつ土地を切り開き、恩給と養鶏で暮らしを守った。すがチャンの父上ではないですが、出荷組合長のようなことも請われて行い、養鶏のモデル事例として国から表彰を受け、アメリカのどこだかに視察に招かれた。1970年以降は、戦争でもらった肺病のために、日がな縁側や庭先を散歩する暮らしを続けました。生計を支えたのはばあさんです。果樹園が軌道にのり、娘3人もそれぞれ東京の大学にやることができた。創価学会を立派に撃退した。

dk4130523.hatenablog.com

「孫の顔を見られるとは思っていなかった」

が、口癖でした。僕ら3人の孫が生まれたのは本当にうれしかったのだろうと思います。同時に、入婿した父親のことは終生、おそらく許していなかった。

それでいて、ひとつ屋根の下にうまく棲み分ける度量があった。面白いのは、たまに、癇癪を起こしたことです。普段は穏やかに、その辺をゆっくり歩いている。県会議員とかが訪ねてくる。意見が合わない。どうしたって論では相手が下というのが爺さんにはある、但し政治はそれじゃ動かない。爺さんは終生口にしませんでしたが、ある種、漢籍に根ざした理想的な生き方のイメージがあったのではないか。いまふと、そんな気付きを得ています。

https://dk4130523.hatenablog.com/entry/2020/11/07/104210

長い話になって、それも横っちょに逸れて、本当に申し訳なく思います。学を修めて、だからそれは何だろうと、そんなわけで立冬調査団、明日、ちょいと足利まで足を伸ばし、花街で鼻の下を伸ばしてくるつもりです。お読みいただき、ありがとうございました。

dk4130523.hatenablog.com