illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

ソフトボールのメッカを訪ねて(2)

あれは2003年のわかふじ国体だったか、僕は三宅豊の監督としてのラスト・ゲームにたまたま立ち会っていた。

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御前崎に宿をとり、そこからの通いで、富士宮ソフトボール場でゲームを見ていた。

前の晩、おそらく他県(三宅は群馬選抜チームの監督を務めていた)の監督かコーチだったと思う、同じ宿の隣の部屋で、むやみに大きな声をたてて、翌日のゲームのプランや、下馬評を立てていた。

そんなわけで、少し鬱々とした朝が始まったわけだけれど、球場入りして、僕のグレーな気分はすっかり吹き飛んだ。

三宅のノックがあまりにすばらしかったからだ。

グラウンド上にはだいたい、常時ボールが3つ動いている。もちろんそれらはノッカー三宅の放ったものである。現役時代には投手でありながら2度か3度の三冠王に輝いている。まるで、どこにどう打てば野手がどう反応しボールを投げ返すかがわかっているような、ノックだった。

「はい、セカンド」鋭いゴロが、絶妙のフットワークを誘う場所に糸を引く。セカンドはボールを捉えて一塁へ。一塁手はサードに転送。サードはゆるいゴロを捕手方向に転がす。捕手はボールを三宅にトスする。三宅が今度は外野にライナーを放つ。打球が伸びゆく間に、ふたつ前、ひとつ前の打球が、それぞれ順送りに処理され、グランド上では遊ぶ選手がいない。

「なんだこれは」

僕は一塁側のスタンドで思わず声をあげた。

*

圧巻はそれだけではなかった。見せ場はその後にもやってきた。

ノックを終えた三宅がマウンドに上がったのである。

現役時代の三宅の投球を、僕はみたことがない。圧倒的に、美しい、鶴や柳と見紛うフォームをしていた。おそらく、南海の杉浦忠を称えるオールド・ファンなら、きっと同じ感懐におそわれるのではないかと、僕は取材ノートに記した。

信じられるだろうか。狙った野手の位置に打たせる投球が続くのだ。

「はい、次サード」「行くぞ、レフト」

断っておくが、ノッカーの発声ではない。マウンドの、いうならば打撃投手の発声である。

寸分違わない。

「どうしてそんなことができるかって?」

ダグアウトで愚問を発した僕に、三宅は笑った。

「実は、それだけじゃないんだ」

どういうことですかと、僕は前のめりになった。

「バッターの、彼はここが最近打てないから、調子悪いようだから、ひとつ内角に素直な球を投げてやろうかと、そのことも考えている」

「つまり、打者の調子や得手不得手を計算に入れ、内外野にまんべんなくノックの打球が飛ぶように、投げ分けている…?」

三宅は、うんうんと頷いて、目をきらきらとさせた。

「そんなことができるとはとても思えない…」

できるんだ、現役のときは、もっとできたんだよ。

三宅はそのとき、ほんのわずかに、さびしそうな表情をした。

*

群馬選抜のゲームが終わったあと、僕はそれ以上に不思議な光景を目にした。

球場の、時計台の裏手の芝生でペット・ボトルのお茶を飲みながら、僕は三宅豊にさまざまのことを訊いていた。僕に、彼にそこまで時間をとってもらうつもりはなく、帰り支度を進めていたところに、三宅から携帯に電話があった。

「よかったら、少し、話しませんか」

二つ返事で、僕は三宅の元へ向かった。

芝生でよもやま話をする中、どこだったか、他県のゲームが進められていた。

ゲームは大差のついた一方的なものになった。イニングは4回だったか。1回から、強いほうは、3、4、2、みたいな得点を重ねていた。コールド・ゲームになるのは疑いのない展開だった。負けている側の投手は、交代を重ね、それでも粘り強く投げている。投手交代のアナウンスは、僕たちのいるところにも聞こえてきていた。

三宅が、背番号30(監督のナンバーだ)が縫い付けられたユニフォームの、後ろのポケットから携帯電話を取り出したのは、そのときのことだった。

「もしもし、三宅だけれど」

*

試合は、予期したとおりのワンサイド・ゲームになった。

「いまから、こっちに来るそうだ」

三宅はそういって笑った。少し、寂しそうに見えた。僕には彼の発することばの意味がわからなかったけれど、そういうのだから何か事情があるのだろうと、はい、と頷いてその後の展開にどきどきした。

勝った側の、監督が帽子を手に降ろしながら、いかにもバツのわるそうな表情、出で立ち、歩き方をして、僕たちの芝生のほうにやってきた。

「いや、三宅さん、申し訳ない」

「うん」

「お恥ずかしながら、打撃好調なもので、勝てば次の対戦相手がxxだろう? 好投手と聞いているから」

「あのさ、相手チームのピッチャーのxx君、ソフトボールを嫌いになったら、どうするつもりなんだ」

「…申し訳ない」

三宅は、僕のことをその監督さんに紹介し、「全日本のときのチーム・メイトなんだ」と耳打ちしてくれた。「三宅先生にはかなわない。何せ男子ソフトボールの生き字引だから」と、監督さんは笑った。「次のゲーム、勝てるといいな」「ありがとう。選手たちに三宅先生にアドバイスをもらったと発破をかけてくるよ」

三宅は、ワンサイド・ゲームの負けた側を思い、相手方の監督に、ゲーム中に電話をかけた。攻撃の手を少しは緩めたらどうかと、勝ちはもう決まったのじゃないかと、その(勝つ)ことが目的なのかと、そのことを伝えるために、試合中の監督の携帯に電話をかけたのだった。

いうまでもなく、僕は、かけたことにも驚いたし、試合の後に監督が頭を下げにきたことにも、驚いた。

「(そんなことを)して、いいんですか」種明かしを知ったあとで僕は思わず声に出して尋ねた。

三宅は、笑って答えなかった。

*

日大の、例の問題がメディアを賑わすようになってから、僕がずっと黙って声を上げずにいたのがこのことだった。あの一連には、そのスポーツを嫌いになったらどうするのかという、指導者側に内発する(はずの)姿勢、視点が決定的に欠けている。

むろん、三宅豊とて神ではない。僕の行った取材の中でも、いろいろと、彼の理想、理念、指導方針に反発する声も(わずかではあるが)聞こえてこないではなかった。(この話にはまだ続きがある。スター)

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