illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

「キャッチャー衣笠が好きでした」

衣笠祥雄の話をしたい。

ぼくが彼、衣笠とじっくり話をするようになったのは、31年前、1987年6月のことだ。彼の連続試合出場記録更新が目の前に迫り、世間はヒート・アップしはじめていた。ぼくはある出版社から、衣笠のことをノンフィクションにまとめてくれないかと頼まれた。

彼のことを知ったのはそれがはじめてではない。79年の暮れから80年にかけて、ぼくは江夏豊のストーリーに没頭していた。文藝春秋社で《Number》という雑誌を出すという。その創刊号に目玉となる記事がほしいという事情があった。

当時たまたま、そのころぼくは文藝春秋社にいくつかのルポルタージュを書いていて、それがきっかけで、「江夏の21球」が企画され、ぼくが指名され、世に送り出されることになった。衣笠は江夏が古葉監督と心理的な水面下でひと悶着を起こす、あの9回裏に、気難しい左腕の気持ちを宥めたことでも知られるようになった。そのことに、ぼくもいささかの役に立てたのだとしたらうれしく思う。

今日ここに来て話したいと思ったのは、しかし、必ずしもそのことではない。

その、衣笠の連続試合出場記録のかかる87年の初夏に、衣笠の夫人、正子さんからいくつかの話を聞いた。せっかくの機会なので、そのうちのひとつのことを、ぼくの「バットマンに栄冠を」から引用したい。

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二人が結婚したのは、昭和46年のことだ。衣笠が24歳、正子夫人は21歳だった。知り合ったのは、もっと前にさかのぼる。二人とも京都の生まれで、正子さんによると、中学のことから衣笠を知っていたという。衣笠が平安高校で本格的に野球をはじめると、彼女はときどきゲームを見にいった。

平安高校で、当時野球部の監督をつとめていた中村雅彦によると、あのころは練習を始める前に、レフトの定位置のずっと奥のほうにノックで大きなファウルボールを打ちあげることがしばしばあった、という。

ホームプレートから見ると、レフトの定位置のその向こう側に校舎があり、そのさらに左側、野球場でいえばレフトのポールが立っているあたりに女子高生がかたまって平安野球部の練習を見にきていたのだという。中村監督は、練習前にまず、彼女たちを蹴散らさなければならないと考えたのである。そのためのノックだった。そうでないと、生徒たちが練習中にレフト方向からの視線を意識してしまう。

高校生のころ、衣笠はキャッチャーをしていた。

「だから今でも私は、キャッチャーをしていたころの衣笠が好きですよ」

正子さんはそういった。

そこに、この夫婦の原点があるのだろうと、当時のぼくには思えた。そう、記した。いまでもそのときの感じ方は変わっていない。

*

衣笠の連続試合出場記録をめぐっては、当時からさまざまな意見があった。衣笠本人も、衣笠を起用し続けた阿南監督も、当人たちにしかわからない思いがあったことだろうと思う。ぼく自身、いささか批判めいたことを述べたり書いたりしたことがなかったわけでもない。

だが、今日くらいはそのことを口にしないでおきたい。むしろそのことは、まず、少し前にこちらにやってきた星野仙一や、ずいぶん前からぼくと一緒にプロ野球の様子を見てくれているエビちゃん海老沢泰久に尋ねてみたい気がする。

「キヌ、来るのがちょっと早すぎやしないか」

ほら、やはり。聞き覚えのある声がした。ふりかえると、闘将の声だった。

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(談=山際淳司。*の間の引用は前掲書P.101-102から行った) 

バットマンに栄冠を (角川文庫)

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