だれかが、だれかにとって何者かであるような時代。それは、時代相の総括めいたいいかたを拒む時代認識であるとは思うのだけれど、インターネットによって可視化された、無数の世界線の、ひとつの断面が、その形をしていないだろうか。
たんぽぽさんのことだ。
若き日の沢木耕太郎が憑かれていた主題のひとつがoverreachersである。行き過ぎた(人)が本義だが、沢木はそこに(まだ)手を伸ばす人という意味を乗せる。たとえば、榎本喜八がそうだ。彼はまだ、自分が現役選手としてやれると思い、昭和47年の引退後も、10年近く、夜な夜な、東京球場の周りを現役さながらの熱気で走り、足腰を維持していたという。
黄金頭さんが先に言及していたカシアス・クレイ内藤も、そのひとりに、沢木の目には映った。ほか、「敗れざる者たち」で取り上げられる人物のほとんどが、まだ、自分が燃え尽きるのはここではないという立ち居振る舞いを見せる。
時代相をもちだせば、比較的、大きな投射角を作り出せる。60年代末の大学紛争から、あしたのジョー、神田川へとなだれ込み、いまなおその社会的残滓をこそぎとることができないかれらの世代は、燃え尽きる場所を探していた。
「それだけじゃないんだ」
あるとき、僕の父親はそう何かをいいたげな顔をしたが、そう、抵抗ないし拘泥することが、なにがしかの尽きせぬ備長炭の消え残りを思わせて、なんともいいしれない気持ちになったものだった。
そう、たんぽぽさんのこと。
男性が、女性が、と、主語がおおきい話を覚悟でいえば、僕は女性の書き手こそ、overreachersであるべき(べきは他者に義務を課す用法ではなく、わが頷きを伴う当然の意にすぎない)だ、あらまほし(他者に何かを望むのでなく単にそうあることが自分に好ましい状態であることを形容する)、と感じている。ご本人がいちばんに感じているとおもうので、あえてご病気のことは度外視した書き方をしてみたい。
歌は、本来、発声だ(った)。歌は、書き付けようとしてことさらに歌うものではない(はずだ)。胸の内から声が出てしまうのである。それを、たまたま、習い性のように、スマホのEvernoteやツイッターに打ち付けているにすぎない。文字の形を借りた歌は軟弱だとすら思う。声のまま、音の紡ぐ形容や描写(意味ではない)のまま、勝負できないような歌は、少なくとも万葉の古いほうの匂いではない。
このように、(またも福田恆存に倣えば)文芸批評は、ひらがなの表音に対する、漢字熟語を中心とした、意味や概念の決定的な敗北を意味させ、跡付ける。それでもなぜ書きつけておくのかといえば、敗北を態することによって、歌の美しさがいくどもよみがえり、際立つからである。
もうハミチンって言わないから出て来てーーー!(エアリプ)
— たんぽぽ (@tanpopo09123) June 12, 2018
ちなみに申し添えておけば、僕は敬愛するたんぽぽさんであろうとこうした言葉遣い、用字用法、半角入り混じりの(わいせつな)カタカナことばは放置するわけにはいかない(積極的に引用する。おいしすぎる)。もっとも、魚拓に取らない程度にはぬるい。
転々と住まい変えても傍らを流れる川がわたくしの川 タンポポ
たんぽぽさんの中を流れる、まだ、先に流れ着くべき(べきの意味は先に話した)場所があるとお感じになる、それを31文字に定着できるoverreach、裏打ちするエッセイがあるというのは、僕は、(流れ行く者自身はたとえ感じない(かもしれない)にせよ)「だれかが、だれかにとって何者かであるような時代」を生きる小さな花の、ひとつの、ささやかな、流れ続ける、確かな抵抗の(決意の)ように思える。
なにものに(は|も)なれなくても、すでに、(だれかにとっての)なにものかであることは、矛盾しない。たんぽぽの花があるときから消えてなくなることの決してないように、そのことは、だれかによって、否定されるもので(は|も)ない。
といういいかたをしてみたものの、要は、僕はたんぽぽさんの歌によって、だれにも認められず、中世古語と品詞分解をやっていてよかったと思ったという、いってみればそれだけの話である。
たんぽぽさんの歌とエッセイには、いいしれぬ奥行きと、清新な情感がある。そのことを、わすれないうちに、書き残しておきたいと思った。