illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

ソフトボールのメッカを訪ねて

80年のメジャー・デビュー作と掲載雑誌の成功を受けて、編集部はあるとき、他に似た素材題材はないものかと企画を組んだ。その結果、ある投手に白羽の矢が立つ。スタッフとライターは、あるものは電車を乗り継いで、またあるものは車に撮影機材を積んで、軽井沢方面へ。目指した先は群馬県安中市

82年春。

ライターは次のように口火を切ったという。

ソフトボールの世界にも、江夏のようなすごい投手がいると聞いて東京からやってきました」

ほとんど突然といってもいいくらいの訪問を受けた、男子ソフトボール界のエースは笑顔で応じた。

「ようこそ」 

ふたりは握手を交わし、たちまち意気投合をする。双方の自己紹介と、取材が進んだところで、エースはせっかくだからと、誘いをかけた。「せっかくだから、バッター・ボックスに立ってみない?」

「いいの?」

「どうぞ」

(このエピソードは、ライターの残した作品のどこにも記されていない。

ライターが亡くなってから7年ほどして、作品を愛好する、あるサラリーマンが、ひょんなことから安中にその人を訪ねる機会を得て、グランドの片隅に設営された、いまは撤去された三塁側スタンドに、エースと並んで腰かけながら聞いた話。)

ソフトボールって、こんなに速いんだね」

エースがマウンドからウィンドミルの投球フォームを起こして投げ込む速球に、ライターは空振りをし、驚いたように、うれしそうにつぶやいた。

「知らなかった?」

「知らなかった」

エースは、うんうんと、頷いた。

「それなら、これから広めればいい。僕らで」

エースは笑った。ライターは頷いた。

そのようにしてひととおりの取材を終えると、ふたりは握手を交わした。

キャッチャーも、内野手もいない。マウンドと、バッター・ボックスで対峙したふたりは、これを契機に電話や、はがきを交わすようになる。それはライターが作家的成功を収め、NHKのキャスターになり、CMに出演するようになってからも変わるところがなかった。

ちなみにいえば、エースよりもライターのほうがわずかに歳上の30歳すぎ。エースは、エースではあったけれどもその世界を出れば知る人は多くない。クラブチームに籍を置きながらの母校、新島学園の体育の先生。ライターは、もはや無名とはいえないまでも、まだ、青春期の陰影を曳きながら、つまり、クロス・ロードで、出会うべくして出会ったわけだった。

(僕は、そのことを確かめに、夏の日に安中を訪ねた)

*

10年と少しが過ぎた。

秋のその日、三宅豊は、代々木にあるソフトボール協会を訪ねていた。帰り道、神宮外苑を歩いてみることにしたのは、ほんの偶然、気まぐれだったという。神宮球場はかれも主要な大会でなんどかマウンドに立ったことがある。ちょうど、右肩の調子に若いころには感じなかったわずかな違和を覚え、年齢(42)のこともあって、漠然と引退を考えはじめていた。

かつての舞台を目に収めておきたい。そんな気分だったのかもしれなかった。

と、道の先、神宮球場の手前あたりに、カメラ・クルーがいることに気づいた。

なんだろうと思っていると、スーツと眼鏡の懐かしい姿が目に止まった。ふたりが互いに気づいたのはほとんど同時だった、けれど、先に声をかけてきたのは山際さんのほうだったと三宅はいう。山際さんはスタッフに声をかけて撮影を中断し、「僕の知り合いだから」と、三宅さんのほうに歩み寄ってきた。

「やあ、久しぶり」

「撮影?」

「うん。ところでどう? 調子は」

「ぼちぼち、かな」    

山際さんは、うんうん、と頷き、それから、「撮影にもどらなきゃ」と右手を差し出した。三宅さんは手を握り返し、少し力を込めて、会釈をした。

「それじゃ、また、どこかで」

踵を返し、外苑通りを地下鉄の入り口のほうに向かう。途中いちど振り返ったときには、山際さんはすっかりキャスターの顔になり、スタッフの説明に熱心に耳を傾けていた。

三宅は、短い会話のなかで、山際さんが自分の肩の調子を尋ねてくれたのだと思った。同時に、喉元にわずかにかかる何かがサインのようなものを送ってきてもいた。三宅は歩みを止め、来た道を引き返す。けれど、

「カメラが回っていたから、声をかけられるような雰囲気じゃなかった」

山際さんは、自分が引退を考えていたことを誰かから聞いたか、察していて、何かを伝えようとしてくれたのではないかと、三宅さんはいまでも思ってる。

そして93年のこのときの邂逅が、ふたりにとっては最後になった。

「山際さんは、そんな人だった」

三宅は、ソフトボール協会の用事の行き帰りに外苑通りを歩くとき、雑踏や、落ち葉に、何か忘れものをしていないかと未だに問いかけられるような気がするのだと、あるとき僕に話してくれた。

*

三宅豊。1951年11月に群馬県に生まれ、93-4年の引退までは選手として、それ以降は監督、指導者、協会理事として、長く日本男子ソフトボール界を牽引する。20年間のクラブ・チーム(群馬(教員)クラブ)での現役生活で、通算勝利数171。

ただしこれは残っているスコア・ブックを有志が集めた、間違いのないものだけで、実際には200前後に及ぶだろうと、関係者は証言する。あるいは200を優に越えていたという証言も、ある。

そのようにして重ねた、171+の勝ち星に対して敗北はわずかに26。7イニングの生涯防御率は0.463。

ソフトボールは基本的に7イニング制で、ロー・スコア、例えば1-0、2-1で決着がつくゲームが大半を占める。その、シーズン制ではなく、負けたら後のないトーナメント制で、彼は20年間(毎年)、春秋2度のシーズンを合わせて8-9勝1敗の成績を積み重ねた計算になる。諄いかもしれないが、4連勝5連勝で優勝、もしくは最後に不運に敗れて準優勝を飾る、それを春も秋も毎年、繰り返してきたわけだった。

*

けれど、そうした記録は問題ではないと、三宅はいう。

かれは事実上、日本にそれまで主流だったスリング・ショット投法に対し、はじめて本格的なウィンドミル投法をもたらした人物でもある。ということは、日本の男子ソフトボールの戦後史そのものということになる。

後には、安中市の教育長も務めた。立志伝中の人物である。

逃げろ、ボクサー (角川文庫)

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以下に、ウィキペディアに載っていない、三宅の公式記録を掲載する(山際淳司の本にも載っていない。この件に関してはご本人から、私がほぼ全権を委ねられている)。ウィキペディアに載せないで、だまっていてくれたら、この話には続きがある。スターください。

line 西暦年 和暦年 投球回数 勝率 防御率7回
1 1974 S49 132 15 1 0.938 0.106
2 1975 S50 62 5 2 0.714 0.452
3 1976 S51 97 11 2 0.846 0.361
4 1977 S52 113 13 1 0.929 0.929
5 1978 S53 109 15 0 1 0
6 1979 S54 75 9 3 0.75 1.493
7 1980 S55 56 6 3 0.667 1.125
8 1981 S56 91 9 3 0.75 0.538
9 1982 S57 116 16 1 0.941 0.302
10 1983 S58 96 13 0 1 0.073
11 1984 S59 34 5 0 1 0.206
12 1985 S60 50 7 0 1 0.56
13 1986 S61 15 2 1 0.667 0.467
14 1987 S62 117 15 3 0.833 0.419
15 1988 S63 42.67 5 1 0.833 0.492
16 1989 H01 7 1 0 1 0
17 1990 H02 86.67 10 3 0.769 0.565
18 1991 H03 29 3 1 0.75 0.966
19 1992 H04 7 1 0 1 0
20 1993 H05 71 10 1 0.909 0.197
21 9999 TTL 1406.33 171 26 0.868 0.463