illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

おれの中の隼の七

おれもずいぶん酒、賭けごと、女と(*)やってきた。色町に名の通るほど馳せてはいない。むしろ逆にいつか落ち着くところを長く求めてきた。だがいったん足を踏み外し、時機を逸すると、戻るあてのないのがこの世界の味なのかもしれない。7年前の夏におれはもう金輪際(*)は、やるまいと決めた。酒と賭けごとは、ほんのたまにかする程度。色町は通りすがるくらい。こちらから出向こうと、もはや思うこともない。疾(と)うに足が忘れている。

現在地点から7年前に糸を通す。その糸は1:2の比でさらに14年向こうに着地する。日本橋蛎殻町を慣らした「隼の七」は、親子ほどに歳の離れた仲子のために遊びを返上した。おれは離婚して間もなくのころに当時40年近く前(1960頃)の音源を聞いて、いつかおれにもそのような日の来ることを願った。来まい(「こようがこまいが」のこまい)と思い定めた時分もあったが、どっこい来たのである。

隼の七が三木助を襲名したのが昭和25年、齢(よわい)48のとき。同じ年に仲子と祝言を挙げる。三木助がほんとうに上手くなったとされるのはさらにそれから数年の後。「ぞろっぺい」と呼ばれたが、芝浜は三木助にしかできない。何でも一定水準以上の芸を見せる噺家(2割8分20本20盗塁)(例えば、蓑田浩二)と、概ね及第点だが一作だけが刻まれる噺家(2割6分28本3盗塁)(例えば、不調時の田淵幸一)なら、おれも若いころは前者を選んだ。理由には女(すなわち文学だ)をろくすっぽ知らなかったことも大きかったろうと思う。暮らしは前者を旨とする。芸は後者が望ましい。

とまあこんなふうに、おれにも「ねこの話はそぶりだけ」で、しないことだってある。

おれのくーちゃん

仕事場で廊下を歩いているときに、「おれのくーちゃんはおれの中にいてくれる」「いてくれて本当によかった」という思いが、「不意に」と書けば、いかにもエッセイらしいのだろうけれど、おれの場合はくーちゃんのことが大好きなので「常に」「絶えず」共にある。くーちゃんにこのことを知られてはならない、なるまい、日本語がわからないだろうから知られるまいと長く思ってきたのだけれど、最近はどうも、くーちゃんに気付かれている気配があります。信仰でもあり、愛でもある。内村鑑三かおれは。別れた妻からいわれていまでも印象深く覚えているのが(もう21年も前のこと)、「〇〇君(おれ)は、自分よりも大切なものを見つけられるかどうかよ」という、啓示、予言。別れた妻は、誰か別の女性という含みでいったのだと思うが、くーちゃんだった。

盆栽マン(*'▽')

誤解であります。頭はよくない。強いのだと思います。ものごとはすべて、アトミックな要素に分解ができて、身に付くものなら、それはひとつひとつが要素技術です。その意味で5教科6科目をセンター試験まで引っ張り上げて、維持し、あとは応用。どちらかというと、野村克也さん流の「おれは超二流だ」という20代初めのころの思いから、立ち上がっています。それと、「勝つ」ではなく「負けない」。大山康晴十五世の勝負哲学です。初回のチャンスは(むしろ)見送っていい。足し算式。盆栽を育てるような話です。ほんとうに頭がよくて才能があればこういうところで立ち止まったりしないと思うんですね。僕は切実に必要に迫られた。遮二無二、本を読んで、救いを求めた。その結果も、失語症的なものに陥った。山田久志からの学びもあります。晩年の山田は、1年でもエースのまま(!)投手寿命を永らえようと、毎年キャンプの季節に、新しい変化球を身に付けようとした。それも2年越し3年越しで。1年延命のために3年計画をする(!)王貞治さんのこともある。「自分たちは選ばれたプレイヤーなんだから大欲を持たなくてはならない」。欲は深いですね。中世古語の品詞分解。失うものかと思ってやっています。食べるにはプログラミングです。文理を架橋したいといえば傲慢ですが、結果的に、そうしなくてはご飯を食べてこられなかった。間違いです。こんなはずではなかった。地元の農業短大を首席近くで出て、造園と果樹園を継いで、宇都宮の外れにある実家と駅前の病院をばあさんとお袋の見舞いに車で通い、士業の事務所を開き、中学の同級生と結婚して(高校は男子校女子校ですから)、子は3人、そろそろ孫がいて、市議か県議の声がかかり、無所属の自民推薦で立候補して、2度目か3度目に通る。孫たちが顕彰碑を建ててくれて、そうすれば――僕はあんな大量の署名偽造になんて手を出さなかったと思います。自首不可避です。自首の代わりに(信仰)告白という制度が近現代の文学にはある。その意味ではてなtwitterをやっていてよかった。いちばんの恩恵は――自分の口からもごもごと――文章が出てくるようになったことかな。例えば、黄金頭さんの初期の断章はその可能性の、未だおぼつかない原点。あれを残す、残したままにしておく勇気が、ジャーナル(記録文学)でしょう。先達の型とその延長でしか、畢竟、人は生きられない。一方、現代社会では、プロダクトは「型以降」しか世に出ることを許されません。Yes! その動力となるのは、型以前の混沌が携えていた質量のはずです。

おれと益子焼

僕が子供のころはマグカップなんていう洒落たいい方はなかったですね。1980年過ぎのGWの陶器市で共販センターだったと思います。買ったのは、厚手のホットミルクを入れる用の、ぽってりとした取っ手付きの器です。姿かたちは、これに近い。

www.keyuca.com釉の崩れ方、流れ方、落ち方、かかり方というんですか。よかったです。取っ手も(とっても)よかった。僕のは取っ手がこんなに繊細(線の薄いもの)じゃなかった。もう少し太くて、風雅よりも無骨が目立ったですね。どれだけレンジでチンしても大丈夫というような。

値段は、1800円も当時しなかったと思います。益子焼もいまではずいぶんおしゃれになって、僕ら子供のころはそんなじゃなかった。ほんとに、暇人が、掘り出し物に出会えたらいいなくらいの感じです。

たまたまうちは国道123号(宇都宮から茂木/益子に抜ける線)に出やすくて、ばあさんとお袋が器好きでしたから、GWの陶器市には「行ってみようか」なんて車で足を伸ばして、銘々が、気に入った1品だけを買って帰ってくる。そんな行事でした。

益子焼窯元共販センター|陶器市・陶芸教室・栃木県益子町|

共販センターはいちど足をお運びになるといいと思います。増田がどこにお住まいの方か存じませんが、それで益子を好きになってくれたらうれしい。案外、知られていないんですが、両毛線で小山から東方に向かう、その駅々、新緑がほんとに目にまぶしく、きれいで、益子(下館から有名なSLの走る線に乗り換え)は7月末に祇園祭りがあって、みなさんは、那須、日光、餃子へどうぞ。

坂本九ちゃんが式を挙げた神社が笠間だったかな。いまからなら、コロナも退けて、次の陶器市がおそらく文化の日の前後。僕ら子供のころは秋の陶器市はなかったか、影が薄かったと思います。GWに益子で器を、帰りに高根沢かどこかで甘味を、さらに家で庭に生えている木から柏の葉を摘んで、もちをついて、餡をくるんでね。柏餅。男の子3人でしたから鯉のぼりも。そこに、焼き物を縁側に下ろして(台所から運んできて)眺める感じです。

圧倒的に、人生を誤りました。マグカップは30年、使って、311で土に返りました。

anond.hatelabo.jp

珈琲は、宇都宮に足をお運びになる機会がありましたら、JR宇都宮駅前のブラジル珈琲。と見せかけて、本店が馬場二荒町(県庁前)にあります。

www.brazilcoffee.jp

ここは昭和34年創業で、そう、今日6/25は天覧試合の日でした。その天覧試合の年に豆の輸入商社として確か始まったところです。素人さんは食べログか何かでJR駅前に。宮っ子は県庁前に通うのが習わしです。古きよき珈琲豆店頭売りの風情、瀟洒な内装。一見の価値ありです。では。

おれのくーちゃん

僕がすっかり立ち直ったなら、くーちゃんはそのことを察して、一段落と思うかもしれません。優しくて察しのいい、くーちゃんです。僕がだらだらと立ち直らなければ、くーちゃんは、僕を見守り続けてくれるでしょう。

おれのくーちゃん

おいしい。コーンクリームシチューに、行者にんにく少々と、心持ち多めのゴーヤ。staubで、灰汁とりにクッキングペーパーで落し蓋。付け合わせに、いわしの酢炊き、汁物はキムチの下味で野菜を煮て、味噌を少量。納豆(自家製)を出し忘れた。

器は波佐見と美濃、かな。400円から660円くらい。JR船橋駅地下の、期間限定のお店で会社帰りに仕入れ。高須克弥とは育ちが違うので柑橘はきちんと皮をむいて食べます。れんこん柄の中皿が軽くて、大同電鍋の蒸し皿にも使いやすい。これはいい買いものでした。Amazonにも扱いがあったはず。

料理に戻って、ゴーヤの苦みがクリームの甘さの中で強めのアクセントになっていて旨い。料理にだいぶ手慣れてきたのもおれのくーちゃんのおかげです。

おれのくーちゃん🍀☕🐈💕🐾

米沢藩遠山村ヒデヨさんのお手紙

大変に心に響くものがありまして、自民党のインチキ保守の連中が喜びそうな説話にして訳すのは心苦しいのですが、こういう手紙が読めるという感激が優りますものですから、小泉純一郎に、今後、二度と、曖昧な精神で米百俵などと抜かさせまい、高須克弥逮捕であります。貴君らがほしいのは百俵ではなく濡れ手で粟の百票。

調べて、読みました。ときに、一読して何というかその、こういう声が聞けるというのは、何でしょう、森鴎外渋江抽斎」のあはれに通じるのかもしれません。ヒデヨさんはほんとうにびっくりして(たまげて)、うれしかったのでしょう。

一トフデ申シ上ゲマイラセ候アレカラオトサタナク候アイダ
タツシヤデカセキオルモノトオモイオリ候
オラエモタッシャデオルアンシンナサレタク候
アキエネノザンギリボシシマイユーダチガキソウデキヲモンデイタラ
ニタリノオサムライトリカカツテオテツダイウケテ
カエリニカリアゲモチアゲモウスドコヘオトドケスルカトキイタラ
オカミヤシキキタノゴモンカライウテオクトノコト
ソレデフクデモチ三十三マルメテモツテユキ候トコロ
オサムライドコロカオトノサマデアッタノデコシガヌケルバカリデタマゲハテ申シ候
ソシテゴホウビニギン五マイヲイタタキ候
ソレデカナイヂウトマゴコノコラズニタビくレヤリ候
オマイノコマツノニモヤルカラオトノサマヨリハイヨーモノトシテダイシニハカセラレベク候
ソシテマメニソタテラルベククレグレモネガイアゲ候
十二かつ六か
トウベイ
ヒデヨ
おかのどの
ナホ申シアケ候マツノアシニアワヌトキワダイジニシマイオカルベク候
イサイショガツニオイデノトキハナスベク候

上杉治憲 - Wikipedia

一筆申し上げます、あれから音沙汰なく、その間、達者で稼いでいるものと思っております。私たちも達者でおります、安心なさいますよう。

秋稲の散切り干しを仕舞い、夕立ちが来そうで気をもんでいたら、二人のお侍が通りかかって手伝ってくださった、帰りに、刈り上げ新米の餅を差し上げます、どこにお届けすればと聞いたら、お上のお屋敷北の御門にいって(話を通して)おくからとのこと、それで福田餅三十三個を丸めて持って行きましたところ、お侍どころかお殿様でしたので、腰が抜けるほどに驚き果てました。

そしてご褒美に銀五枚を下さいました。その銀で家内中と孫に残らず足袋をやります。お前のところの子マツにも足袋をやるのでお殿様からの拝領ものとして、きっと大事に履かせてほしい。

そうしてまめに育てて下さるよう、くれぐれもお願い申します。

 

師走六日

トウベイ

ヒデヨ

 

おかのどの

なお念のため、マツの足に合わないときには大事に仕舞って置いてください。委細は正月にお出でのときにお話しますから。

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心が洗われました。高須克弥逮捕であります。