illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

盆栽マン(*'▽')

誤解であります。頭はよくない。強いのだと思います。ものごとはすべて、アトミックな要素に分解ができて、身に付くものなら、それはひとつひとつが要素技術です。その意味で5教科6科目をセンター試験まで引っ張り上げて、維持し、あとは応用。どちらかというと、野村克也さん流の「おれは超二流だ」という20代初めのころの思いから、立ち上がっています。それと、「勝つ」ではなく「負けない」。大山康晴十五世の勝負哲学です。初回のチャンスは(むしろ)見送っていい。足し算式。盆栽を育てるような話です。ほんとうに頭がよくて才能があればこういうところで立ち止まったりしないと思うんですね。僕は切実に必要に迫られた。遮二無二、本を読んで、救いを求めた。その結果も、失語症的なものに陥った。山田久志からの学びもあります。晩年の山田は、1年でもエースのまま(!)投手寿命を永らえようと、毎年キャンプの季節に、新しい変化球を身に付けようとした。それも2年越し3年越しで。1年延命のために3年計画をする(!)王貞治さんのこともある。「自分たちは選ばれたプレイヤーなんだから大欲を持たなくてはならない」。欲は深いですね。中世古語の品詞分解。失うものかと思ってやっています。食べるにはプログラミングです。文理を架橋したいといえば傲慢ですが、結果的に、そうしなくてはご飯を食べてこられなかった。間違いです。こんなはずではなかった。地元の農業短大を首席近くで出て、造園と果樹園を継いで、宇都宮の外れにある実家と駅前の病院をばあさんとお袋の見舞いに車で通い、士業の事務所を開き、中学の同級生と結婚して(高校は男子校女子校ですから)、子は3人、そろそろ孫がいて、市議か県議の声がかかり、無所属の自民推薦で立候補して、2度目か3度目に通る。孫たちが顕彰碑を建ててくれて、そうすれば――僕はあんな大量の署名偽造になんて手を出さなかったと思います。自首不可避です。自首の代わりに(信仰)告白という制度が近現代の文学にはある。その意味ではてなtwitterをやっていてよかった。いちばんの恩恵は――自分の口からもごもごと――文章が出てくるようになったことかな。例えば、黄金頭さんの初期の断章はその可能性の、未だおぼつかない原点。あれを残す、残したままにしておく勇気が、ジャーナル(記録文学)でしょう。先達の型とその延長でしか、畢竟、人は生きられない。一方、現代社会では、プロダクトは「型以降」しか世に出ることを許されません。Yes! その動力となるのは、型以前の混沌が携えていた質量のはずです。