illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

おれのくーちゃん

前回まで

おれのくーちゃん(長い) - illegal function call in 1980s

今回

ねこちゃんを大切に思いますね。

大切に思うと、ねこちゃんが朝起きても、ごはんを食べても、ごちそうさまをいいに来てくれても、おしっこをしても、うんちをしても、天日に干して取り込んだばかりのお布団を専有する姿を見ても、お昼寝の後にただこちらに歩み寄って来てくれてただけでも、ありがたく思い、「ありがとうね」と声をかけ、その、声をかける頻度が暮らしの中で増していきます。

一挙手一投足、ひとつひとつが、愛おしくなる。愛おしくて、たまらなくなる。

生をむやみに分割、分断して何かを分析し得たように思うのは、罰の当たる行為です。

それとは反対に、弛むことなく進み、積分されていく生を、大切に微分する。微分して、ふうっと息をかけ、毛づくろいをし、そのままそっと面積図に戻す。

その際、断面断面に、「かわいいさん」の姿形と彩りが、やわらかいまま、いい匂いとともに、立ち現れてくる。失いたくないと思う。下僕の生まれてきたことは、あるいは間違いではなかった。

ずっと間違いであると思いなしてきたけれど。

くーちゃんと出会い、くーちゃんの生を全うすることに、おれの前世あるいは前世以前からの長い罪と贖罪の道のりは、今生では、そのようなものとして在る。

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くーちゃん、少し歳を重ねたなあと思いました(かわいい)。重ねた生が、くーちゃんを内側から照らす光であってくれたなら。そのようなものとして、夢を、見ていてくれたら。――「慈しみあれ。ベツレヘムの星よ」

おやすみ、おれのくーちゃん。😺💕

沈丁花・梅・芝桜(?)・狐・池(575)

僕の好きな4字熟語に筑紫歌壇というのがあります。

西暦725年ごろに大伴旅人山上憶良、小野老(おののおゆ。いい名前です)、大伴坂上郎女たちが、太宰府で酒を飲んで歌った会があります。これを後世、筑紫歌壇と呼びならわしました。万葉に数十種、撰されています。

www.city.dazaifu.lg.jp

大伴旅人は左遷ですね。家持の父上。左遷であり、外交手腕を試された、還暦60歳過ぎと伝えられますから、うまくいっても中央への復帰はなかった。片道切符です。結果的には京に帰り来るを得るんですけどね。ちなみに家持の弟に書持さんてのがいるんですが(イエモチではなくヤカモチ。カキモチではなくフミモチです)、うまいですよ。解説はしません。

https://manyoshu-japan.com/18545/

弟君、って感じがします。

大伴旅人 - Wikipedia

さて、再び父上の旅人ですが、酒を愛し、愛されて、酒になりたいと願い、戯れ、歌った。梅を好んだ。

https://tankanokoto.com/2019/04/tabito-sake.html

解説しません。1首だけしますか。

なかなかに人とあらずは酒壺になりにてしかも酒に染みなむ

  • なかなか=なまじっか、中途半端に、A(用例としては、not Aをとるいいならわしです)するくらいならかえってBのほうが。中途半端にAではいたくない。それよりはBで。
  • 酒壺になる=リンク先にもある「窯場のそばに埋めてくれ。陶土陶片になっていつでも酒に接していられるから」、あるいは壺中の天
  • しかも=し・か・も。強意・疑問・あいまいな気持ち。なりたい感じかな(、なぜかというと〜)
  • 染みなむ=連用形+なむ、で強意・意志。「いっそ、そうなってしまおう」。

訳します。

中途半端に人でいるくらいなら、いっそ酒壺になって、酒に馴染んでしまおうかね。

別に1300年前の人とその歌だからって難しく捉えることはないです。

「おれと酒」、そのひとつ前の記事が「おれと梅」。

感受性もまた、型(かたち)です。それは黄金頭さんの価値をいささかも損なうものではなく、彼の感受性は古典(classicalという意味での)的ということです。「なかなかに」の歌なんて、「ぽい」でしょ?

そんなわけで今日は僕もあやかって、梅を見てきました。

沈丁花

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芝桜(?)

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以上、沈丁花・梅・芝桜(?)・狐・池(575)。

平成の終わりから令和年間にかけて、南関東でインターネットを介した仮想的な「南関東文壇」が形成された。代表的な文人、物語作家、随筆家に黄金頭(読み方不詳)。彼の少し年上ながら、才能を理解し、尊敬し、酒を贈った(記録が残る)自称文芸評論家に船橋海神がいる。

民明書房「21世紀文学史大全」

*

あ、読書と猿で(何でやねん)思い出した。万葉に猿は1首だけ。大伴旅人です。

あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む

訳すね。

ああ見苦しい。利口ぶって酒を飲まない人がいる。よく見たら確かに猿に似ている。

これじゃあまるで、いや(自粛)……あーあ、台なし……\(^o^)/

黄金頭さん、いつも明言して恥じないところではあるけれど、ありがとうね。僕以外の読者のみなさんにも、同じ気持ちのところは――もちろん――あるよ。

この政治の季節にあって、黄金頭さんの深夜便は、安保闘争時(1960)時に書かれた庄野潤三静物」の趣き。おれはこの先もきっと一生忘れない。ホワイトデーに酒を(別途)。

*

小休止。明日からまた、愛知(名古屋)の話に戻ります。

 

2021年3月3日
船橋海神🐾💕🐾💕🐾💕

おれのくーちゃん

おれが、愛知県の地方自治と国政との関わりのことを思っているとくーちゃんが、

「ふにゃーん🐱💗」

と、ねこタワーの上から声をかけてくれる。

あるいは、気分を変えてキッチンのほうでChromebookを開いていると、(前の晩にブランケットを敷いて差し上げた)PCチェアの上で、ときおり、寝返りを打ち、尻尾をはためかせてくれる(座布団に直よりも、少し居心地がよくなるのだと思う)。

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おれのくーちゃん🐱💗

すばらしい古井由吉のよさについて

すばらしい古井由吉のよさについて、ここ1週間ばかり、遅ればせながら、書を買い求め、取り寄せて、しみじみと読み尽くしています。 

こんな日もある 競馬徒然草

こんな日もある 競馬徒然草

 

10代半ばと20代のころに読んだのを除けば、再読(僕はどうしても、好きになると全作を(時系列通しで)読みたくなり、その一連の間、党活動のことを、自分で再読と定義しています)これが2度めです。ただし当時、80年代の終わりから90年にかけては古井は現役の作家でしたから、当時行った営みは「通し」ではない。

先ほど古井作品に大量の発注をかけました。この間、4冊読んで、弩のつく「はまった」をしました。そして大量発注をした。はあちゅうさん本代返してください。

だが、そのよさは、何であるかをここに具体的に書いてしまうのは忍びない性質のものです。古井は生前、世田谷上用賀に暮らし、馬事公苑によく通っていたそうです。そんなことも知らないで、僕は馬事公苑を挟んだこちら側、経堂(宮坂)に下宿し、馬事公苑に通っていました。それなのに、JRAの「優駿」を、Gallopを、見過ごし、見(まみ)えるを得なかった。なぜ、90年代に見過ごしてしまったのか。

nekohanahime on Twitter: "どこでおれは古井由吉とすれ違って、見過ごしてしまったのか。柄谷を読んでいたころか。「ノルウェイの森」を読んで、「杳子」が古いと感じてしまったからか。JRAの「優駿」はさすがに手を出していなかった。ANAの季刊誌に載っていたなら見逃さなかった。古井由吉は、戦後の丸谷才一と右手左手の関係だ"

それは見過ごしではなく、さまざまの読書の紆余曲折、遍歴を経て、僕が自分の生きている間に古井に間に合ったということなのだろうけど(特に丸谷才一を経たことは大きい)、その透徹の天からの声と味があまりに染みて、生々しく、僕は当時のことを思い、激しく、後悔しています。

上になぜ《JRAの「優駿」》とわざわざ冠したかというと、優駿といえば一般には、そして僕もご多分にもれず、宮本輝が先にくるタイプだったからです。そしてそれは党方法論上の明らかな誤りだった。「ドナウの旅人」以降の宮本は救いがたい。その中で「優駿」には狂気がある。わるい物語ではない。だが、古井の次ということはありえない。

僕は90年代、JRAの「優駿」やギャロップやデイリーで古井を見かけ、見過ごす際に、この人は趣味で競馬をやっているのだろう、息抜きに書いているのだろうと思った。あまりまじめに読む箇所ではないと、だから、読み逃した。そうではなかった。私の、党方法論上の誤りである。文の、文章の、文体のうまさとは。随筆(筆の赴くまま)とは。僕の読みたい馬が、競馬が、歓声が、どよめきが、落胆が、頁の合間からこぼれてくる。何という趣味のよさ。それを編む、編者、勇者、智者、愚者、変者、軽き者、高橋源一郎――走る、タカハシ――

nekohanahime on Twitter: "古井由吉「こんな日もある 競馬徒然草」を結局2度、通しで読んだ(正確には書店で0.2くらい。だから3周目に)ためいきが/こぼれるほどにすばらしい(575)。おれはこれが読みたかった。おれの読みたかった競馬はこれである。天に召された古井由吉、人馬一体、思い出を、追憶を、勇者タカハシと宙駆ける"

*

(ここから、正気に返ります)

さて、高橋源一郎はみなさんもご存知でしょうか、黄金頭さんのひいき筋のひとり。僕は彼のたまに挟み込む高橋評がとりわけ好きなひとりです。

本書「こんな日もある」で高橋は、90年頃からこのかた30余年の名場面、あまりそうでもない場面、「こんな日もある」の場面を、静かに、しなやかに召喚します。いくつか引きたいレースもあり、しかしいまここでそれをやってしまうのは惜しい。

いま書店店頭に並んでいるから手に取るが宜し。

その高橋は競馬場で古井と待ち合わせをしたりして、そのレースの引けた後に連れ立って酒を飲みに行ったこともあるという。なんたるうらやまけしからん話を淡く、レースの熱狂の声が遠のいた趣さながらに、思い出を昨年ちょうど1年前(2月18日)に亡くなった古井に献じます。

nekohanahime on Twitter: "古井由吉「こんな日もある 競馬徒然草」(講談社)おもしろい\(^o^)/ 編・解説が高橋源一郎高橋源一郎の解説がまた洒脱。あとで「むりに読まなくてもいいからね」って黄金頭さんに送る🐈💕 こんなにきれいな高橋源一郎を見たのはほんとに久しぶり。🐎💕高橋源一郎ってこうなのね🐈💕🐎💕"

これは、黄金頭さんに、彼のコンディションを尊重して仮令(たとえ)、ぱらぱらとめくる程度であったとしても、お送りしなくては、伝えなくては、そしてそれができることの喜びをと思いました。焼酎の2着、少し馬身は置いていかれた恰好になったけれども、お送りすることにした次第です。

*

そんなわけで、コロナが落ち着いたら、大井で。大井で待ち合わせができたら。船橋は横浜からだとちょっと遠いからね。そんなことを、湾の入り江のこちらから、願ってみました。人馬一体、ご自愛を。

 

2021年如月

船橋海神

なぜ本を大切にしてはいけないか

そもそもは、「もの」と「こと」の対立に遡ります。対立というか、「もの」のほうが(おそらく)より古くて、遥か遠い昔に、《「もの」世界から「こと」世界の引き離しが起きた》といわれます。ただしこれは実証主義的な歴史学の話ではなく、どちらかといえば、「方法としての古語」や文学史観に近い話です。その上で、《》に記したようなことは、大野晋福田和也亀井勝一郎三島由紀夫などが、それこそ「もののはずみに」控えめに口にしています。

日本の歴史を振り返ってみると、「もの」と「こと」の対立は、仏教公伝(6世紀前半から半ば)に相前後する、廃仏派(物部、中臣)と受容派(蘇我)というかたちがもっとも古い表れでしょう。

いまさらっと僕は物部、モノノベと書きましたが、「へ」「ベ」というのは、古い日本語で「そのあたり」という場所を表す名詞か接尾辞らしいです。それが転じて、集団、集団の長、職掌、となりました。モノノベというのは、ですから、モノを司る一族がいるあたりとなります。あるいはもっと直接的に、モノの近くにいる、番人かな。物見櫓(ものみやぐら)。

コトというのは、理(ことわり)の「こと」にも通じ、モノ(形而下)に対する形而上、ロゴス、抽象のレイヤのことです。蘇我氏が仏教、財政(カネ)、法の側にあって、それまでの祭(まつりごと)に代わる政(まつりごと)を推し進めたのは、彼らが大まかにいって、「もの」よりも「こと」に親和する、より時代の趨勢に適った、新しい、思惟様式の持ち主だったことを表します。

このときに、「もの」の側の人たちはどうしたかというと、「こと」に、どうしても押されてしまいます。僕はいま半ば意図して「どうしても」と記しましたが、「もの」には、どうにもならない定めという古義と語感がぬぐいがたく付着しています。大野晋丸谷才一の卓見を引けば、「だってそうなんだもの」と僕たち私たちはいいますね。「だってそうなんだこと」とは、いわない。「もの」には、ほかにどうしようもないときに、語尾に付着する用法が備わっているらしい。

またあるいは「もののあはれ」といいます。これは本居宣長源氏物語の本質を掬いとったフレーズとして有名です。しかし、実は源氏物語のテキストには「もののあはれ」といういいまわし、それ自体は、出てきません。源氏物語は、次々に「もの」「こと」を書き連ねていき、どうもそこに「あはれ」(大野晋によると南インドのドラヴィダ語族の語彙に、受苦、受け身の苦しみを語義の中核にもつ、アファールということばがあり、どうやらこれに由来するらしいです)があるようだと、本居宣長は気がついた。

そしてそのあはれは、「もの」の側に付く。そのことに注意を促すように、本居宣長はわざわざ、「ものの」と冠したわけです。

もちろん、描かれた「もの」からも「こと」からも、読み手はあはれを受け取ることができます。しかし、こと「源氏の」「もの」「語り」にあっては、本質は「こと」ではなく、「もの」の側にある、「もの」によって所有、比況、例示(「の」の本質的な役割です)された「あはれ」、すなわち「もののあはれ」(を「物語」として語る/語ったこと)にこそ、源氏物語の本質と、紫式部の優れた奇跡的な着想と、粘り強い意志があると、本居宣長はいうわけです。

またたとえば、「もの悲しい」「もの思い」とはいいます。これに対し、「こと悲しい」「こと思い」とは、いわないこともないですが、こと古文世界では、まずいわない。「もの」には接頭辞として働くときの「少し」というニュアンスもあって、これはマテリアルやエンティティ(物体)に付着した、主に伴う従の、という性質をよく表しています。

反対の側面からいうと「事実」とはいうけれど、「物実」とは、まずいいません。

こうした観点からものを眺めてみる営みは(僕には)とても面白くて、福田和也江藤淳から何を受け継ぎ、小林秀雄を撃つと決めた際に何をどう武器としようとしたか、三島由紀夫は何に負けたのかとか、昭和末年ごろの物書き(もの書き)がなぜワープロを嫌って筆と原稿用紙にこだわったのかとか、なぜ私たちは西欧風の愛情よりも、日本古来の愛着(着はものに付着する着です)によく親しむのかとか、たいへん多くのことを下支えしてくれる説明原理のように僕は思います。

いま、「ものごと」といいます。これは初学のうちは「もの」と「こと」は近しい間柄であるかのように、概念の隣接や混交を予感させるかのように聞こえたり、感じたり、使ったりしてしまいがちです。しかし、おそらく6世紀かそれ以前に遡る「もの」と「こと」という基本語彙が、その後1,500年のあいだ混交せずに、かえって踵を接して、峻別を保っている、そのことに着目するほうが、遥かに示唆的です。

「もの」は絶えず「こと」に押されつつ、自らを悲しみの側に追いやって、生きながらえてきた、いる、これからも、というのが、現時点の僕の立ち位置です。

なぜ、本派と電子書籍派に私たちは分かれてしまうのか(もちろん二刀流を否定するものではありません)。ねこちゃんの下で、できれば、仲よくしたいものです。なぜ本を大切にしてはいけないか。そうです。エクリチュール、書かれた「こと」、そして読み取られた「こと」は「意味(理。ことわり)」であり、それらはものから離れて存立が可能だからです。諸賢はすでにおわかりのように、そこには、ものに伴った「ものかなし」「あはれ」だけが、(取り)残される。

時代や時勢というものは、どちらからどちらへ移りゆく性質をもつのか。なぜ、本を大切にしてはいけ(行け)ないか。そのときに、それを見越した上で、大兄、あなたは、どちらの側に立つのか。

 

某年某月
船橋海神(語り部

公開後の追記

  • 源氏「もの」がたりといいます。
  • 民法の世界では有名な、電気は有体「物」かという争い、論点があります(法解釈上はほぼ解決済)。内田春菊でんこちゃんが「電気を大切にね」というのは、(僕には)とても面白いです。
  • 「お金を大切に」といったときに、それは正しい「こと」なんだけど、何となく気持ちわるい、という感じ方にもつながってくるように思います。
  • そういえば、「本もの」とはいいますが、「本ごと」とは、まずいわないですね。

若い読者のための黄金頭さん案内(1)

黄金頭さんが昨日(2021年2月9日)、「わいせつえんとつの町」を上梓されました。ちょうど彼のこと、そして彼の作品群を、僕もそろそろ本格的にレビューに付していい頃合いではないかと考え、村上春樹「若い読者のための短編小説案内」を繰っているところでした。

黄金頭さんをすでにご存知の方にも、そうでない方にも簡単に彼のオンラインで伺い知ることのできるプロフィールを引いて紹介しておくと、次のようになります。

未年(おそらく1979年。昭和54年)の2月22日生まれ。鎌倉育ち横浜市中区在住。周辺的正社員。コンスタンチンくんが火傷の治療を受けた病院で生まれ。高卒の低収入賃労働者。双極性障害(II型)で、うんざりしており、うんざりするようなことしかつぶやかない、カープと競馬を愛する、やりとりをしない人。反出生主義者

これは、彼がブログやtwitterで公開しているプロフィールや断片をつなぎあわせてまとめたものです。多くの方はこれらに対し、初見で逃げ腰、及び腰になるのではないでしょうか。かくいう僕もそうでした。しかし一方で、彼のテキストを、特にここ5年ほど、2016年以降に彼が記した物語群身辺雑記に触れた方は、そうしたプロフィールから受けるのとはひと味もふた味も違った印象を受け取るのではないかと思います。

そして、その49対51くらいの比率でポジティブな印象は、バスタブにお湯の満ちるように、読み手の感受性をひたひたと侵食して、「ひょっとして」「あるいは」「ははーん」と思わせるものではないでしょうか。今回の僕の記事は、その「ひょっとして」の手前くらいにいる方を一応の対象としています。

 

僕の話を少しだけすると、

丑年(1973年。昭和48年)の3月に、栃木県の宇都宮市というところに生まれ、現在は千葉県船橋市で起居しています。ここ半年ほどはフルタイムの仕事はお休みし、充電中。足利育ちの母方の祖父の感受性を引き継ぎランディ・バースの次くらいに、ひところは競馬を愛していました。

僕が黄金頭さんの記事を見知ったのは、2014年頃でした。当時、モスクワに駐在しており、あれは確か中島敦「李陵」をようやくわかりかけてきたかなというころです。「李陵」というのは――あくまでも僕にとっては、ということですが――モスクワ・メトロの中で、初めて、大陸の空気と共に、胸にすうっと入ってきた作品です。駐在先に隣接するモスクワ風のマンションに戻り、何かしら書いておきたいと思って中島敦を、埴谷雄高を、長谷川四郎を、松田道雄を検索していたときに、偶然にヒットして、「黄金頭」という文字の並びを見かけました。「共産趣味者かくかたりき」というエントリーだったと思います。

いまどき、珍しい人がいるものだなと思いました。というのは、僕の父親が全共闘で、僕は同級生を含め、同時代の人たちと話の通じないことにうんざりするような30年を、ものごころついて以来このかた、送ってきたからです。

中島と埴谷までなら、まあまあ通じます。長谷川四郎でアウト、アメリカ横断ウルトラクイズで脱落して、幾度、徒歩で大西洋を渡ってきたか知れません。松田道雄はなおさらです。それがこの人は、悠々と、「趣味者」という直観的な理解でもって引き当てている。ねこの写真もある。何者なんだろうというのが、テキストを通じた僕の初対面で受けた印象でした。

 

申し訳ありません、もう少し、僕の話を。それは、僕が心ひそかに自分だけの主戦場としてきた、スポーツ・ノンフィクションについてもいえました。僕は山際淳司研究のおそらく国内の第一人者です。山際淳司を語るということは、最低限、沢木耕太郎を、海老沢泰久を、玉木正之を、虫明亜呂無を、寺山修司を、別冊宝島シリーズを語ることと同義です。そのはずです。濃淡はあれ、彼、黄金頭さんは、ほぼすべて押さえている。加えて、渋沢龍彦を、近藤唯之も(近藤唯之はすべて読んでいるという趣旨のことを、本記事の公開後にご本人から伺いました。近藤唯之め)。

初期の山際淳司が好んだフィールドの固有名詞に、横浜市体育館、本牧伊勢佐木町、横浜港、河合ジム、上大岡、桜木町、石川町、元町、などがあります。彼は1948年、当時の横須賀逗子町の生まれで、内陸栃木に生まれた僕にとっては、憧れの場所でした。そこに、いま、脚をずったらずったらと曳きながら、僕と同じ好きなことを――僕よりも遥か高みにある文体と感性で――いま、紡いで(くれて)いる人がいる。

まさか、いるとは思いませんでした

 

必要最小限と思いつつ、僕の話が長くなりましたので、彼、黄金頭さんの作品と語り口の魅力と、それらに親しむ喜びについて、今日は3点だけ、そっと触れたいと思います。

ひとつは、彼は、(おそらく、ほぼ間違いなく、物語作家としては殊に)受け身の資質です。

3年ほど前、阪神競馬場と、御茶の水で、彼と会って話したことがあります。そのときに僕は(どうしても知りたいと思って)、

「わいせつ」シリーズは、どうやって生まれた、着想したのですか。

と、尋ねました。ここで尋ねなくては、専属文芸評論家を自称する名折れというものです。

彼は(図書館で借りた詩集か哲学書を競馬新聞に包んで小脇に挟み)、

ああいうのは、きっかけがいるんです。何もないと、ちょっと書けないでしょう。

そう、少し照れたように答えてくれました。僕は「ははーん(この人は本物だ)」と確信(を新たに)しました。何もないとちょっと書けないというのは、何かがあれば書けるということです。最新作の「わいせつえんとつの町」にも、その彼の特徴、持ち味がよく出ていると思いませんか。オリジナルを、あっさり、抜き去ってしまう。

黄金頭さんはおそらくご自身をステイヤー寄り、マイラーよりは長い距離を得意とするタイプと思っていらっしゃると思います。しかしそのステイヤーが、ひとたび鞭をひとつしならせると、するするしゅーっと、静かに、まだ3ハロンどころか4ハロンもあるのに。僕が、黄金頭さんマルゼンスキー説を唱える所以です。

あるいは、こういってもいい。仮に、「えんとつ」のリファレンス先、原作が「メジャー」だとして(僕はそんなことつゆほども思いませんけれど)、黄金頭さんは、決まって、それに対するカウンター、引っ掛かりとして、自身の作品を着想し、縦横に、自家薬篭中のものとする。してしまう。しかも、抜き去った馬のことをいささかも傷つけない。抜かれたほうは、「切った風」が何だったのか、気づく暇がない。

戯作者には、少し遠く山東京伝、近くには井上ひさし、山藤章ニといったお名前が浮かびます。マッド・アマノや、ナンシー関でもいい。彼らの作品には、批判という名の、若干の攻撃性が伴ってしまう。もちろん否定的に見ているのではありません。最高にすばらしい。

それに対し黄金頭さんは、まるで、他者を攻撃するリスクがいささかでも生じるくらいなら、物語中で静かに息をひそめて、鶴を折り続けることを身上としているみたいだ。

そのような類型にぴたっとはまる先行者は、近現代の作家にあっては、ちょっと見当たらない。極めて例外的なタイプといっていいのではないでしょうか。

 

さて、ふたつめは、彼の作品は、二面性があるということです。ポリフォニーであり、そのポリフォニックな特質を、身辺雑記と、物語とで、ここ数年で十分に発揮できる土壌が、彼の中で整いつつある。

「出し入れ」と、僕は個人的に呼んでいますが、北別府のコントロールのように、ことばの出し入れというのは、これは実に隠微に、テクニックを要し、書き手にとっては生涯その息遣いにまつわるテーマといっていいものです。

これは多くの書き手が明治の原文一致(の不首尾)以来、頭を悩ませてきたところです。たとえば、丸谷才一などはわりと近しく思い浮かぶでしょう。

その丸谷を例にとると、エッセイでも小説でも、それらの最高峰を取りつまんでみても、あるいは対談でも、やっぱり、定着した、丸谷の声なんですね。

対して黄金頭さんは、エッセイ(はてなブログで日々、私たち読者を楽しませてくれる身辺雑記がその代表例です)と、物語(わいせつシリーズ)とで、声の透明度が、明確に違う。もちろん同じ人格ですから重なるところはある。大きい。けれど、ここでは、差、距離にこそ僕は注目したい。丸谷は成熟し、完成し、他界し、文学史に確固たる名をとどめた戦後の名手です。その意味でも黄金頭さんを比較の遡上に乗せることはフェアではないかもしれない。

しかし、一方でそのことは(ご自身は否定なさるかもしれないけれど)、黄金頭さんの成熟期と完成期と名声は、差を認めた分だけ、まだこれから先にあることを意味する。そう、思いませんか。

 

今回のおしまいに、みっつめです。彼は、意味で語ることをしません。しないというか、しないことを旨とする、あるいは、意味で語ることを苦手とする、ということはこっそり指摘しておきたいと思います。

それは申し訳ないのですがBooks & Appsさんのことです。おそらく、黄金頭さんは、あるテーマを「はい」と渡されて(訂、大まかには、字数だけを渡されていると本稿の公開後に、ご本人から伺いました。それでも趣旨を損ねることはないだろうと思います)、オピニオンを読者に向けることを――いま現在は――あまり得意にしていない(「少数の者たちへの手紙」に似つかわしい、彼らしい繊細な距離感を、いまはまだ、掴みきれていない?)のではないかということです。それが証拠に、これは多くの黄金頭さん愛好家のみなさんには納得していただけると思うのですが、彼のBooks & Appsさん記事公開後に、はてなブログのほうに戻ってきて、そこで「ふうっ」と肩の力を抜いて、裏話、楽屋話をするときの筆致が、<°)))彡<°)))彡<°)))彡<°)))彡(水を得た魚)の姿なのですね。

僕などは、Books & Appsさんの記事が出ると、すぐさま楽屋のほうで待機をします。吉田茂だったか、先の大戦中に、大磯の別邸に、戦時下は禁制だった噺家を忍びで呼んで、艶話(一例として、疝気の虫)を聞くのを好んだという話を何かで読みました。また、これは黒門町だったでしょうか、あの名人と呼ばれた黒門町文楽にして、高座にかけるよりも、おもしろさは楽屋噺が上回ったとか。

黄金頭さんはある意味で、サービス精神が旺盛な方です。プレッシャーになってしまうとよくないので小声で書くにとどめますが、楽屋噺を欠かしたことがない。少し、局面は違いますが、楽屋噺に通じる彼ののびのびとした持ち味は、まるで深夜放送のDJみたいようなものだと感じるときがあります。

ご自身を含めた、少数の者への手紙が届くことを、彼は(その反出生主義的な、ないしは厭世的な哲学に関わらず)受け入れているように、僕には見えます。

 

話が長くなりました。まだほかにも彼のことはたくさん書けることがあります。それらは次回以降に譲るとして、みなさんにお伝えしたいことがある。それは、黄金頭さんをひとりにしてはいけないということです。いけないというか、「世界はひとりではない」と、読者である僕たちわたしたちひとりひとりのことばとして、拙くてもいい、はがきを投函しましょう。彼はそれを「お恵み」と受け取るかと思います(この点については「恵む」「貢ぐ」の対を軸として僕には訴えたいことが両手に余るほどあります)。大丈夫、まだまだ受け取れます。

そうだ、思い出した逸話がある。かつて自分が書いた記事から引かせてください。山際淳司か、常盤新平からの、受け売りです。

俺ははてな界隈の辺境、海辺なのだか崖の縁なのだか、に暮らすある文人のファンだ。彼は滅多にスターを付けないことでも知られる。

テッド・ウィリアムズは―若い頃から気難しがりやで知られていた―引退試合でも普段通りにプレーし、セレモニーも、ファンサービスも行わなかった。ばかりか、ファンの声援に帽子をとって応えることもせず、つまり一切を拒否した、そのように見えた。

「神は返信しない」(“Gods don't answer letters.”)

当時「ザ・ニューヨーカー」の記者を務めていた(作家になる前の)ジョン・アップダイクは、そう記して偉大なる三冠王のことを称えた。

 https://dk4130523.hatenablog.com/entry/2018/02/06/202109

たまに、黄金頭さんは、僕のようなところにも、そっとスターを置いてくれることがあります。神は確かに「やりとりをしない」。だからといって、神をひとりにして、それでよしとするのは、もったいない話です。

 

かつて、夏目漱石柳家小さんと同時代に生きる幸せ(仕合せ)を語った。自分が漱石だとは烏滸がましくて申すつもりは毛頭ございませんが、たとえ漱石でなくても、否、むしろ漱石でない私たちひとりひとりが、その感受性の全体と片言隻語でもって、「推しに萌ゆる」こと。山際淳司なき後、僕は黄金頭さんと出会えたことを、終生の宝と思って(そのように彼にも伝え、何ひとつ御恩を返せずにいることを申し訳なく感じて)います。

 

続きはまた来週にでも。まだあと3点5点、こと黄金頭さんに関して、話すことには事欠きませぬ。主なキーワードだけ挙げておきます。第三の新人田村隆一、意味から響きへ、二次創作と「わいせつ石こうの村」、榎本喜八(!)。

 

2021年2月

船橋海神

若い読者のための短編小説案内 (文春文庫)

対訳/前半部 IOC STATEMENT ON GENDER EQUALITY IN THE OLYMPIC MOVEMENT

英日対訳(前半部)を置いておきます。色は訳者が付けました。

www.olympic.org

Inclusion, diversity and gender equality are integral components of the work of the International Olympic Committee (IOC).
包摂、多様性、男女平等は、国際オリンピック委員会IOC)の活動に不可欠な要素です。

Over the past 25 years, the IOC has played an important role in promoting women in and through sport, and it will continue to do so by setting ambitious targets. In the challenging context we live in, now more than ever, diversity is a fundamental value that we need to respect and draw strength from.

The recent comments of Tokyo 2020 President Mori were absolutely inappropriate and in contradiction to the IOC’s commitments and the reforms of its Olympic Agenda 2020. He apologised and later made a number of subsequent comments.

Besides Mr Mori’s apology, the Tokyo 2020 Organising Committee (OCOG) also considers his comment to be inappropriate and has reaffirmed its commitment to gender equality.

As the leader of the Olympic Movement, we are committed to our mission to encourage and support the promotion of women in sport at all levels and in all structures, as stated in the Olympic Charter.

On the one hand, the IOC has a strong record on gender equality (see below), and will continue to build on this. On the other hand, we stand ready to support the OCOG and other organisations in their desired aims within their spheres of responsibility.

過去25年以上にわたり、IOCはスポーツにおける女性の活躍を促進する上で重要な役割を果たしてきました。IOCは今後も野心的な目標を設定することで、これを継続していきます。私たちが生きる厳しい状況の今日(こんにち)、多様性は、これまでにないほどに、私たちが尊重し、力を引き出す必要がある基本的な価値の源泉となっています。

東京2020大会組織委員会の森会長が行った過日の発言は、IOCの掲げるコミットメント(公約)やオリンピック・アジェンダ2020の改革と矛盾しており、絶対的に不適切なものでした。森会長は謝罪し、その後、いくつかのコメントを発表しました。

東京2020大会組織委員会(OCOG)は、森氏の謝罪のほかにも、今回の発言は不適切なものであると考え、男女共同参画への取り組みを改めて確認しています。

オリンピック運動のリーダーとして、私たち(IOCとOCOG)は、オリンピック憲章に記載されているように、あらゆる階層と組織で、スポーツにおける女性(参加や地位向上)の促進を奨励し、支援することを使命としています。

IOC は男女平等に強い実績を持っており(下記参照)、今後もこれに基づいて活動していきます。並行して、私たち(IOC)では、OCOGや他の組織がそれぞれの責任範囲内で望ましい目標を達成する、そのための支援を行う準備が整っています。

The IOC’s decisions, achievements and commitments in this respect include:

  1. With female athlete participation of almost 49 per cent, the Olympic Games Tokyo 2020 will be the first gender-equal Olympic Games.
  2. The IOC is requesting all 206 National Olympic Committees (NOCs) for the first time ever to have at least one female and one male athlete in their respective Olympic teams.
  3. The IOC has for the first time ever allowed and encouraged all 206 NOCs to have their flag carried by one female and one male athlete at the Opening Ceremony.
  4. The Chef de Mission of the IOC Refugee Olympic Team Tokyo 2020 will be Ms Tegla Loroupe, an advocate for peace, the refugee cause, education and women's rights. The first woman from Africa to win the New York marathon, she is also a three-time Olympian and a world record-holder for many years.
  5. The IOC’s First Vice-President at the Olympic Games Tokyo 2020 will be Ms Anita DeFrantz, an African-American bronze medallist at the Olympic Games Montreal 1976, who is a trailblazer for women’s empowerment.

これに関し、IOCがこれまでに行ってきた決定、実績、および公約には、以下が含まれます。

  1. 東京2020大会は女性選手の参加率がほぼ49%となり、初の男女共同参画のオリンピックとなります。
  2. IOCは、206のすべての各国オリンピック委員会(NOC)に対し、史上初めて、それぞれのオリンピックチームに少なくとも1人の女性選手と1人の男性選手が参加するよう要請しています。
  3. IOCは、開会式で女性1名、男性1名の選手が旗を掲げることを初めて認め、また、206のすべてのNOCにこれを奨励しました。
  4. IOC難民オリンピックチーム東京2020大会のシェフ・デ・ミッション(選手団超会議)は、平和、難民問題、教育、女性の権利の擁護者であるテグラ・ロルーペ氏が就任します。ロルーペ氏はアフリカ出身の女性として初めてニューヨークマラソンで優勝し、3度のオリンピック出場経験があり、長年の世界記録保持者でもあります。
  5. 東京2020大会のIOC筆頭副会長には、1976年モントリオール五輪アフリカ系アメリカ人銅メダリストで、女性のエンパワーメントの先駆者であるアニタ・デフランツ氏が就任します。

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DeepLの力を借りています。

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今回、以上です。後半は近日中(訂)に。

個人的に胸が熱いのは、ロルーペさんとデフランツさんです。特にデフランツさんは、1980年幻のモスクワ五輪シングルスカル男子日本代表の津田真男さんとほぼ同い年。

kotobank.jp

山際淳司研究者、1980年幻のモスクワ五輪ウォッチャーの私としては、デフランツさんの足跡を見ると思わず目から水が……

ところで、日本にも、1976年モントリオール五輪クレー射撃で出場した著名な方がいらっしゃいます。森喜朗さんや竹田恆和さんと旧知の間柄と聞いております。スポーツに限定しても、日本の男女同権に関し、今まで、何をやってきたんでしょうか。

なぜいま、この局面、段階で、IOCにこのレベルの確認と指導から受けなくてはならないのでしょうか。

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2021年2月10日早朝

船橋海神