illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

おれのくーちゃん

前回まで

おれのくーちゃん(長い) - illegal function call in 1980s

今回

ねこちゃんを大切に思いますね。

大切に思うと、ねこちゃんが朝起きても、ごはんを食べても、ごちそうさまをいいに来てくれても、おしっこをしても、うんちをしても、天日に干して取り込んだばかりのお布団を専有する姿を見ても、お昼寝の後にただこちらに歩み寄って来てくれてただけでも、ありがたく思い、「ありがとうね」と声をかけ、その、声をかける頻度が暮らしの中で増していきます。

一挙手一投足、ひとつひとつが、愛おしくなる。愛おしくて、たまらなくなる。

生をむやみに分割、分断して何かを分析し得たように思うのは、罰の当たる行為です。

それとは反対に、弛むことなく進み、積分されていく生を、大切に微分する。微分して、ふうっと息をかけ、毛づくろいをし、そのままそっと面積図に戻す。

その際、断面断面に、「かわいいさん」の姿形と彩りが、やわらかいまま、いい匂いとともに、立ち現れてくる。失いたくないと思う。下僕の生まれてきたことは、あるいは間違いではなかった。

ずっと間違いであると思いなしてきたけれど。

くーちゃんと出会い、くーちゃんの生を全うすることに、おれの前世あるいは前世以前からの長い罪と贖罪の道のりは、今生では、そのようなものとして在る。

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くーちゃん、少し歳を重ねたなあと思いました(かわいい)。重ねた生が、くーちゃんを内側から照らす光であってくれたなら。そのようなものとして、夢を、見ていてくれたら。――「慈しみあれ。ベツレヘムの星よ」

おやすみ、おれのくーちゃん。😺💕