illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

わいせつスチームバスの和邇

ぼくの母の父方は、下野足利は蟻野(ありの)庄というところで代々、漢学者と神主をつとめた家系と聞いている。

蟻野荘には渡良瀬という大きな川と立派な橋がある。いまでは、森高千里の歌で知られているだろう。ぼくたちが子供のころは、いまとはまた違った風情で、毎年8月第1週の土曜日の夕方に、南は鎌倉、北は庄内から、裳着と元服を済ませたばかりの女と男が「いざ足利」と地うねりのような声をあわせて集い、踊り、勤しむ。

祖父の家は川筋の渡し場に船宿をもっていた。学問だけで食べていくことは難しい。屋号は「船宿わたり」といった。「お食事と宿わたり」ともいって、昭和の時代には電話帳にも載っていた。たまたま屋号が同じというのでサングラスをかけた軍団が日産のスカイラインとスズキのカタナでやってきて、会食を楽しんでいたこともある。その宿の2階は、花火を見る格好のポイントになっていた。

橋はふたつあって、そのうちの田中橋のたもと、西側に「スチームバスセンター」がえんとつを空に向かって立てている。そのえんとつからもくもくとけむりが立ち上るのを見るのが、ぼくは好きだった。西の日に輝くけむりには、子ども心にも、何かたまらない詐欺的な魅惑があった。

夏場には蒸気に揺られて、星が落ちてきそうだった。

スチームバスセンターが何であるかは、子供にはわからない。耳ざとい兄方や姉方が何やら耳打ちしてくれたこともある。ぼくにはわからなかった。

ただひとつ、子供心に恐れたいい伝えがある。

成人するまでに15回――7足す5足す3に由来するらしいと後に椿井正隆の書で知った――そのえんとつを見ると、以後は何を読んでも、また書いても「不遍々々(ふへふへ)」あるいは「非縁(ぴえん)」としか読めない字姿になってしまう。

ぼくのところのような、書を守り、縁(えにし)によって遍く天地(あめつち)の下にあることを最善とする家には致命的である。「坊っちゃん、見てはいけませんよ」と、ふだんは優しい大人たちも、このことだけはぼくに厳しかった。ぼくもまた、この教えだけは厳しく守ろうとした。

それでもどうしてもがまんができないときには、父親の釣り竿をこっそり部屋からもってきて、それをえんとつに見立て、ぐっと握りしめて、ときには畳の部屋をぐるぐると歩き回って、がまんする。けれどどうしても見たくて、14歳のぼくに残りの回数は3回か4回しかなかった。

蟻野(ありの)戸を渡す守り人下つ草もゆる火の枝の絶ゆることなし

がまんにがまんを重ねて、竿を強く握り折ってしまったこともある。

父親があまりに激しく怒るので、ぼくは泣いた。そのときに祖父が書付に筆を走らせ、渡してくれた歌だった(ちなみにそんなとき、祖父は入婿の父親の顔をきつく見つめ、「奢ることなかれ」と印を結んでいた)。歌は、沢田源内という儒者が17世紀後半に、いまでいう滋賀県おごと温泉のあたりからわざわざ訪ねて、ぼくたちの先祖に残してくれたものという。本当のところは、もちろんぼくにはわからない。

「大丈夫。アリゲーターを見にいこう」

そのころ、足利ワニ園というのがバスの終着駅にあって、夏場、移動遊園地のようにどこからともやって来て、100日限りの営業を終えると、またどこかへと去ってしまう。山ひとつ越えた先にグンマーというおそろしい場所があり、そのサファリワールドで人気のなくなった動物たちが、運命を受け入れてサーカスよろしく旅を重ねるのだと聞いた。

祖父は、ぼくにつらいことがあると、ひとつ前のバス停で降り、ワニ園に続く湿原までの小径をよく手を引いて連れていってくれた。

「森にいるワニやサメとしつげんは、昔から相性がいい。サメのことを昔は和邇と呼んだものさ。大丈夫。いまに、きっとわかってくれる人と出会える。奢ること、なかれよ」

ぼくは「はい」とも「うん」ともつかない返事をした。祖父は、ぼくの涙を拭うと、スチームバスのえんとつとはちょうど反対方向、渡良瀬にかかる、8月の眩しい空と雲を見遣った。笑った横顔が、詩人の田村隆一にとてもよく似ている。そのことは、祖父が亡くなったずいぶん後になって、気づいた。

遠く背後、繁殖期をまちがえたらしいアオサギの鳴く声が、ぼくたちを襲った。

https://twitter.com/goldhead/status/1357918421325778945

わいせつ石こうの村(黄金頭) - カクヨム