illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

なぜ本を大切にしてはいけないか

そもそもは、「もの」と「こと」の対立に遡ります。対立というか、「もの」のほうが(おそらく)より古くて、遥か遠い昔に、《「もの」世界から「こと」世界の引き離しが起きた》といわれます。ただしこれは実証主義的な歴史学の話ではなく、どちらかといえば、「方法としての古語」や文学史観に近い話です。その上で、《》に記したようなことは、大野晋福田和也亀井勝一郎三島由紀夫などが、それこそ「もののはずみに」控えめに口にしています。

日本の歴史を振り返ってみると、「もの」と「こと」の対立は、仏教公伝(6世紀前半から半ば)に相前後する、廃仏派(物部、中臣)と受容派(蘇我)というかたちがもっとも古い表れでしょう。

いまさらっと僕は物部、モノノベと書きましたが、「へ」「ベ」というのは、古い日本語で「そのあたり」という場所を表す名詞か接尾辞らしいです。それが転じて、集団、集団の長、職掌、となりました。モノノベというのは、ですから、モノを司る一族がいるあたりとなります。あるいはもっと直接的に、モノの近くにいる、番人かな。物見櫓(ものみやぐら)。

コトというのは、理(ことわり)の「こと」にも通じ、モノ(形而下)に対する形而上、ロゴス、抽象のレイヤのことです。蘇我氏が仏教、財政(カネ)、法の側にあって、それまでの祭(まつりごと)に代わる政(まつりごと)を推し進めたのは、彼らが大まかにいって、「もの」よりも「こと」に親和する、より時代の趨勢に適った、新しい、思惟様式の持ち主だったことを表します。

このときに、「もの」の側の人たちはどうしたかというと、「こと」に、どうしても押されてしまいます。僕はいま半ば意図して「どうしても」と記しましたが、「もの」には、どうにもならない定めという古義と語感がぬぐいがたく付着しています。大野晋丸谷才一の卓見を引けば、「だってそうなんだもの」と僕たち私たちはいいますね。「だってそうなんだこと」とは、いわない。「もの」には、ほかにどうしようもないときに、語尾に付着する用法が備わっているらしい。

またあるいは「もののあはれ」といいます。これは本居宣長源氏物語の本質を掬いとったフレーズとして有名です。しかし、実は源氏物語のテキストには「もののあはれ」といういいまわし、それ自体は、出てきません。源氏物語は、次々に「もの」「こと」を書き連ねていき、どうもそこに「あはれ」(大野晋によると南インドのドラヴィダ語族の語彙に、受苦、受け身の苦しみを語義の中核にもつ、アファールということばがあり、どうやらこれに由来するらしいです)があるようだと、本居宣長は気がついた。

そしてそのあはれは、「もの」の側に付く。そのことに注意を促すように、本居宣長はわざわざ、「ものの」と冠したわけです。

もちろん、描かれた「もの」からも「こと」からも、読み手はあはれを受け取ることができます。しかし、こと「源氏の」「もの」「語り」にあっては、本質は「こと」ではなく、「もの」の側にある、「もの」によって所有、比況、例示(「の」の本質的な役割です)された「あはれ」、すなわち「もののあはれ」(を「物語」として語る/語ったこと)にこそ、源氏物語の本質と、紫式部の優れた奇跡的な着想と、粘り強い意志があると、本居宣長はいうわけです。

またたとえば、「もの悲しい」「もの思い」とはいいます。これに対し、「こと悲しい」「こと思い」とは、いわないこともないですが、こと古文世界では、まずいわない。「もの」には接頭辞として働くときの「少し」というニュアンスもあって、これはマテリアルやエンティティ(物体)に付着した、主に伴う従の、という性質をよく表しています。

反対の側面からいうと「事実」とはいうけれど、「物実」とは、まずいいません。

こうした観点からものを眺めてみる営みは(僕には)とても面白くて、福田和也江藤淳から何を受け継ぎ、小林秀雄を撃つと決めた際に何をどう武器としようとしたか、三島由紀夫は何に負けたのかとか、昭和末年ごろの物書き(もの書き)がなぜワープロを嫌って筆と原稿用紙にこだわったのかとか、なぜ私たちは西欧風の愛情よりも、日本古来の愛着(着はものに付着する着です)によく親しむのかとか、たいへん多くのことを下支えしてくれる説明原理のように僕は思います。

いま、「ものごと」といいます。これは初学のうちは「もの」と「こと」は近しい間柄であるかのように、概念の隣接や混交を予感させるかのように聞こえたり、感じたり、使ったりしてしまいがちです。しかし、おそらく6世紀かそれ以前に遡る「もの」と「こと」という基本語彙が、その後1,500年のあいだ混交せずに、かえって踵を接して、峻別を保っている、そのことに着目するほうが、遥かに示唆的です。

「もの」は絶えず「こと」に押されつつ、自らを悲しみの側に追いやって、生きながらえてきた、いる、これからも、というのが、現時点の僕の立ち位置です。

なぜ、本派と電子書籍派に私たちは分かれてしまうのか(もちろん二刀流を否定するものではありません)。ねこちゃんの下で、できれば、仲よくしたいものです。なぜ本を大切にしてはいけないか。そうです。エクリチュール、書かれた「こと」、そして読み取られた「こと」は「意味(理。ことわり)」であり、それらはものから離れて存立が可能だからです。諸賢はすでにおわかりのように、そこには、ものに伴った「ものかなし」「あはれ」だけが、(取り)残される。

時代や時勢というものは、どちらからどちらへ移りゆく性質をもつのか。なぜ、本を大切にしてはいけ(行け)ないか。そのときに、それを見越した上で、大兄、あなたは、どちらの側に立つのか。

 

某年某月
船橋海神(語り部

公開後の追記

  • 源氏「もの」がたりといいます。
  • 民法の世界では有名な、電気は有体「物」かという争い、論点があります(法解釈上はほぼ解決済)。内田春菊でんこちゃんが「電気を大切にね」というのは、(僕には)とても面白いです。
  • 「お金を大切に」といったときに、それは正しい「こと」なんだけど、何となく気持ちわるい、という感じ方にもつながってくるように思います。
  • そういえば、「本もの」とはいいますが、「本ごと」とは、まずいわないですね。