いずれ朽ちゆく命のために、あたら(惜。せっかく)授かり育てた才を以て、刺し違えるのは得策とはいえません。
*
僕も何度か(何度も)渡りかけた橋です。いまはかなりの低空飛行で無害に落ち着き収まっているからいいものの、互いに若い頃にぶつけ合い、憎しみ合った記憶は残ります。未だに数日に一度フラッシュバックし、コロナがなかったなら、殴り倒しに、張り倒しに、足を運んでいたことと思います。
*
文学あるいは批評のことを持ち出すなら、「おれがかつて裏切った母に報いる」あるいは「ここは長男の責任としてやらなきゃならないような気も」のところに、かつて夏目漱石が乃木希典の殉死に直観したかのような、古い時代精神の黄泉がえりを僕は感じ、虚を衝かれたように思いました。
それらは、理屈でも情動でもないところから、運ばれてくるもののようです。
*
僕も似た、時代精神の持ち主です。それだから、分かるような気がします。
僕も長男であり、僕がかつて裏切った(続けた)母や、祖母のことを思い、なぜ野郎がいま生き延びているのか、その中空に浮いた「やる」の行動の着地しないままに、生を終えるのが僕の場合なのでしょう。
*
一方で、先日お書きになっていた、石牟礼道子をまるで自分のおばあちゃんのように思っているというフレーズは、漱石の対極のほうから光をもたらしてくれるものと僕は読みました。
*
そこで、ものは相談です。
いずれ朽ちゆく命のために意を決することができるなら、いずれ朽ちゆく「私たち」「別の」衆生のために、頭上の嵐が通り過ぎるのを、歯を食いしばって持ちこたえるのも、また一つの在り方かと存じます。無論、通りすがりの虚無僧には遠くを見遣ることしかできませぬゆえ、今晩はこれくらいで。
*
といいつつ、そうそう、拙僧、最近、頓に思うことがございます。
孤独で孤立しているけれど、にもかかわらず世界はひとりではない。にゃーん🐾♥
— nekohanahime (@nekohanahime) 2020年12月18日
生は無意味だ。唯一、意味があるとしたら「生は無意味で不条理だ」という認識だろう。従ってほとんど唯一の解決策は死である。それは変わらない。だが僕にはその前にやることがある。🐈❤
— nekohanahime (@nekohanahime) 2020年12月17日
もちろん、「いまそこ(お手元)にある」生の苦しみは言の葉によって取り除かれるものではありません――おそらくは、にもかかわらず、「その前にやること」が残されているうちは、何ものかの導きによって、生を放擲することはできない定めになっているのではないでしょうか。敢えなきわが身を省みながら、東京湾の東方(ひがしかた)より、ふと冬至の夜空を見上げております。
よくよく、くれぐれも、ご自愛のほど。
「御身大切に」母が生前、僕をよく諭していた言葉です。
浮瀬の身ながら、お祈り申し上げております。
2020年師走
船橋海神 拝