illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

「参加者を募る」よりもたぶん大切なこと

タイトルは虚仮威しです。踏み込んだ政治の話はしません。絶望したら白眼視して話をしないのが古くからの流儀です。節を、拙を守る気概くらいは保ちたい。

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みなさん、「つのる」を辞書で引きましたか。

つのり【募り】『四段』(1) 力がついて強くなる。強大になる。(略) (2) 力を得ていよいよはげしくなる。ますますひどくなる。高ずる。(略)

大野晋他「岩波古語辞典補訂版」P.886

集めるという意味はありません。4点、せっかくなのでお話しします。

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ひとつめ。

日本語の動詞は、もとは自動詞だったものが他動詞に転じたものが多いという作業仮説をもっておくと役に立つことがあります。(自然ガソノヨウニ)(絵巻物や紙芝居のように)(ナリナリに)【なる】ことを自然と受け止めるような感じ方が、もし仮に民族の感受性の基層というものがあるならば、底に近いところにたゆたっている。私はそう感じています。この「募る」も、そうです。

研究があったかどうか、ぱっと出てこないのが残念ですが、募るの縁語、とまではいかなくとも、波、風、嵐、思い、恋…そういったものが、人力や人智、意志を越えて『力を得ていよいよはげしくなる。ますますひどくなる。高ずる』という感じが、あることは認めるに吝かではなかろうぞ。

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ふたつめ。

「募金」といいますが、これはお金を募る(ハゲシク強大ニ集める)ことですね。ただの募金だと生々しいので、戦後(1947)に、「赤い羽根」あるいは「共同」という緩和剤を頭に乗せて、ハゲシク強大なんだけど、アメリカさんのデモクラシーの見様見真似をして、みんなでやればハゲシクない(共同)ってことで始められた、そう断じてしまうと問題があるにはあるですが、うちの亡くなった祖母(1923生まれ)や母(1949生まれ)は、生前この「募金」というオブラートに包んだものいいを、「いやらしい」といって、ひどく嫌っていました。

そのことを、今日ふと思い出した次第です。彼女たちにとって、人為で募るのは、何かしら作為めいて、わいせつなんですね。

私にも、是非は別にして、その感覚は残り、受け継がれています。特に権力や立場というのは、固辞して固辞して3人組がたらい回しにして「どうぞどうぞ」っていいあって、いわれてようやく渋々に座布団につくのが『日本人だなあ』なんて、つい、受け止めてしまう者です。

もちろん、この権力観は、こと近代においては、幾重の意味で、間違っています。

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みっつめ。

これは「岩波古語辞典」にも載っていなかった私の独自研究です。が、そう外していなかろうと思います。「つのる」は「つ」+「のる」であり、「つ」は、「ちょっと」とか、反復、繰り返し、継続を含意する接頭辞(現代語のつつ、がその子孫であります)に、「のる」(体重をかけて重心を低くし、そうしたところにとりつく、乗り移る)が結びついたものではないかしらん。

古代世界では、波や風や嵐や思いや恋は、ヒトにとって魔物であり、とりつかれるものでした。それが継続性を帯びて、もはやどうにもならないほどに高ずる。すなわち「つのる」です。

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よっつめ。

実はこれがいちばん申し上げたかったことです。

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1984年です。冒頭に、ちゃんと「つのる思いに」とあります。

そして、

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本曲、坂井泉水大先生の中では、あまり知名度は高くないかもしれません。しかし、先生はちゃんと、思いは「揺れ」たり「つのっ」たりするものだということを私たちに繰り返し伝えてくれます。

「想い」など、私の感覚では好ましくない用字用語もございます。しかしながら、みなさん感受していらっしゃることと思うのですけれど、坂井泉水の歌い上げる言葉遣いというのは、古くて、遠くて、透き通って、もう、届かない。

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興を削ぐ蛇足をひとつ。

共産党の今回の追及はなかなかよいものでした。惜しむらくは、辞書を引くべきでした。なぜなら、ここ30年ほどの政権を通底する文系軽視は、まず辞書を引かせない、引かれたら困る、そういう方向で一貫しています。なぜなら、正しく辞書を引き、由来や語源を紐解くことによって、政治家の言質の軽さがあっという間に露呈するからです。

その状況を許してきた、私たちひとりひとりの不作為が、「だってなんとかさんがひどいこというから」の杉田水脈であるとか、親友と豪語していながら「募る」の由緒や由来を事前に電話であべ晋三に伝えてやらない、文芸プロレス界の重鎮、大知識人、グレート小川榮太郎を生み出した、そのような時代のことは、そろそろ両手で引き受けてみてもいい頃合いのように、私には思われます。

小泉某太郎次期総裁待望論が、それこそ募って手がつけられなくなる前に。