illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

黄金頭さん「わいせつ石こうの村」に寄せて(3度めくらい?)

黄金頭さんの繊細なことばに対するセンスの発露はことさらなところがなく、しかしやわらかく丁寧で、そのたゆまぬ積み重ねが「わいせつ石こうの村」に結実しているのは論を俟たないところと思われます。

すばらしい断章を読みました。

goldhead.hatenablog.com

というわけで、まあなんだ、どうってこともないわけですし、おれがすすんで「イキる」という表現を使うこともないように思うのですけれど、一つ言葉をピンに留めておきますね。以上です。 

「どうというわけでもない」話を、自然に大切に記してしまうのは、そのような作法がご自身によくよくなじんでいるからでしょう。「おれがすすんで『イキる』という表現を使うこともないように思うのですけれど、一つ言葉をピンに留めておきますね。」黄金頭さんの書くものの愛読者のひとりとして、この方には小さいものへの愛(それはたとえば彼の撮した街先の木々や草花やみうらじゅん的なものの姿恰好を見ることによっても知れるでしょう)があることに、同時代をずったらと歩き、かろうじて生きていくひとりとして、大げさではなく何かしらの啓示を感じます。

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そう、テーマは「イキる」のことでした。

黄金頭さんはねとらぼの次を引用していらっしゃいます。

イキるとは、調子に乗ったりえらぶっていることを表します。日本語俗語辞書には「意気がるの略」と記載されています。もともと関西方面で使われていた方言が全国に広まったもののようです。

nlab.itmedia.co.jp

私から見ると、しかし、これはかならずしも誤りとまではいえないものの、筋はよくありません。このことばの使われる状況と用例の照応関係から、あたかもそれが「イキる」に内在する意味であるかのような追認解釈を行っています。これは本質的な意味の説明とは到底いえないものです。

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以下に、順を追って少しだけ論じてみます。

まず「イキ◯」には、ラ行とマ行の2系統があります。「いきる」「いきむ」です。(中世)古語でも辞典を紐解けば、

  • いきる:熱る・温る。「あつくなる。ほてる。むしむしする。激しく怒る。」
  • いきむ:息る。「息を詰め、腹に力を入れて力む。」

熱る(いきる)の意味 - goo国語辞書

息む(いきむ)の意味 - goo国語辞書

などとあることがわかります。ちなみに「いきる」のほうがラ行四段活用。「いきむ」がマ行四段活用です。ここでなぜこの確認、念のための線引きを行うかというと、いまお題に上っている「イキる」「イキり」は、活用語尾がる・りであって、ラ行です。「概ね」と冠はつきますが、中世古文で行われていた◯行の活用には、現代語でも同じ◯行の活用が受け継がれているといっていい、という基本原則があります。そこからすると「イキる」「イキり」は熱る・温る系の子孫にあたるのだという推定に分があるでしょう(さらにいえば、少し話を端折る形になりますが、後世おそらく「いきる」系と「いきむ」系がその音の近しさから意味の交配混濁が起こった、その先にいまがあり、私たちの立つ地平があるといえるかもしれません)。

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加えて、補助線を3本ほど引きます。

  • 「イキる」「イキり」は、否定的、抑制を勧める外、他者からの視線と親和する語彙に僕には感じられます。「イキってんじゃねえよ」。否定や抑制のニュアンスを含まないときの用法に「いきり立つ」があり、これなどはまるで火山のような。いかにも「熱る」「温る」らしさを携えているように思います。
  • 対して「いきむ」は、(よくない例示ですが)お産や大の排泄が似合うことばです。「はい、そこでいきんで」。鼻息の荒いさま。ついでに、これもまた脱線ですが、「いきむ」は「りきむ」とも後世に意味用法の混線的交配が起こったのではないでしょうか。
  • 第一の補助線のニュアンスは、現代のネットスラングにも息づいていると僕は思います。「>>1 顔真っ赤鏡みろよm9(^Д^)プギャー」。ウェブの辞書で横着しますが、「興奮した人をなだめるための表現」「静まれ・そうムキになるなよ・顔真っ赤だぞ・ムキになるな・ムキになんな・興奮するな・落ち着け・そうカッとならずに・そうカッカせずに・そうカリカリせずに・そうヒートアップせずに」などとあります。顔真っ赤だぞの同義語 - 類語辞典(シソーラス)

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さて、補助線を引いておいて恐縮ですが、以上は話の枕です。

「イキる」「イキり」が、(生き・意気とくらべて)より「熱」「温」の血のほうが濃い感じがするというのは辞書を引けばたちどころにつかめる感覚です。20年くらいの訓練が必要ではあるものの、そこをクリアすればわけないといってもいい。たしかに、品詞分解や語源探求には、固有の知の喜びはあります。しかし同時に、そうしたことはすぐれた物語や物語作家を前にしたとき、あくまでも二義的な話題の域を超えません(そういえば福田恆存もきょうとてもいいことを話していた)。これは厳然たる事実です。

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誤解も恋のうちだといえるのだとしたら、私は今回の黄金頭さんの「生」「意気」および九鬼周造のほうに連想が導かれるところにこそ、彼の物語作家としての最大の特質美点があると、諸君、私はにまにましている。彼の「わいせつ石こうの村」を読めば諒解されることですが、この作品にはイキんだ、イキり立ったところが(作品構成上必要な登場人物の造形を別にすれば)ほとんどまったくありません。その対極です。ひとりひとりに、やさしさと粋が尽くされている。

kakuyomu.jp

そしてそのような特徴は「わいせつ」以外の彼の書きもの、日々雑感にも(当然に)あらわれています。私が初めて彼の断章を読んだときに虚を衝かれたのが、「おれ」という一人称のファルスとその対極にある、書かれたことばのある種の女性性、それらの背反でした。黄金頭さんはおそらくわが内なるマグマと戦いつつ、しかし外に対してはきわめて自己抑制的な方なのでしょう。今回のお題に戻せば、だから「イキる」ということばとその用法に自身との微妙な陰影、距離を察知することができたのではないかと思案します。

あ、福田恆存アフォリズムはあれは劇作家と批評家を両立する自身の難しさとその山頂を幾度か経験した余裕、諦念からくる自戒です。一片の真理ではあるけれど十全の真理ではない。福田のシェイクスピアヘミングウェイに接する姿勢で、僕はこれからも「わいせつ石こうの村」を、人生の折々に、繰り返し読み進めていくはずです。

岩波 古語辞典 補訂版

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