illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

丸田祐三のこと

私は祖父譲りの、大正昭和期を貫く、筋金入りの将棋ファンである。うそではない。いま試みにわがブログを「将棋」ないし「河口俊彦」で引けば、立ちどころに次の記事が上ってくる。

dk4130523.hatenablog.com

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今日、うれしいことがあった。

丸田祐三さんのご子息、写真家の丸田祥三さんから、Twitterでお声かけをいただいた。私は父上、祐三さんのことが祖父(1921-1996)譲りで大変に好きであったから、ぜひこのことは書き留めておかなくてはと思い、筆の代わりにキーを執った。

*

河口俊彦が、丸田の思い出を印象深く記している箇所を引用する。

丸田が力を持ったのは、大山(康晴)と仲がよく名人を後盾にしていたからだ、という人もいたが、それは当たっていない。丸田その人に実力があったのだ。将棋の力も、升田、大山の次だったし、けたちがいに頭がよかった。なんていうか、特殊な頭の働きをするのである。(略)

河口俊彦「人生の棋譜この一局」角川文庫P.307

続いて、将棋連盟の給与システムの話が出てくるのだが、そのことは今回の私の主題ではない。私は次の2箇所を引いて、せっかくお声かけいただいた祥三さんに、お父上に将棋に導いてくださった義理を果たさなければと思ったのである。

(また、)人間的に一本筋が通っていて、仲間にこびず、人によって意見を変えることがなかった。それでいて、案外情にもろいところもあり、芹沢(博文)なんかは、親に金をせびるような感じで接していた。

前掲書P.310

さらに、

先日、丸田と対局日がいっしょになり、対局中の雑談で、(その)昔話をして「先生も昔はエラかった」といったら、「なんだい、今はエラくないみたいな言い方だな」

「木村(十四世)名人でも、引退すると変わるんですかね」と、(連盟経理担当の丸田をさん付けで呼んだことを引き合いに出して)こだわると、「いや現役のころから、私にはさんづけだったよ」とすましていた。

丸田の勢威たるや、表では知られていなかったが、内部では大変なものだった。それが、戦後間もなくから、昭和60年代までつづいた。戦後の将棋連盟を動かしていたのは、升田、大山ではなく、丸田ともいえるのである。

前掲書P.307

しかし、それにしても河口俊彦というのは将棋界、将棋指しというのをよく見ている。そして、しかしを重ねるようで恐縮だが、私は河口と丸田の関係を、引用した上の箇所だけに見ているのではない。そんなことを書くくらいなら、はなから、書かない。

P.309に、たばこをくゆらす、実に渋い対局表情の丸田の肖像が掲載されている。

そのキャプションに、

丸田祐三(大正8年-)「小太刀の名手」といわれ、昭和後期に活躍した。一流棋士でもあったが、将棋連盟の大番頭として、戦後の将棋界を支えた。

とある。河口俊彦は、棋士紹介の写真下の短いキャプションに、意を尽くす。

もちろん、彼が升田、大山に憧れ、その薫陶を受け、彼らはもとより、芹沢博文にも手も足も届かなかった、しかし、丸田のことは、どうしても随筆に書きとどめておきたかった気持ちが、とてもよく伝わってくる。

*

丸田は、第一人者にはなれなかった。河口も、もちろん、第一人者どころか、その挑戦権にさえ遠く及ばなかった。

別の著作には、ただいちどの、丸田が大山名人に挑戦した名人戦で、「だれも丸田が勝つとは思わなかった。はやく将棋はやめにして温泉に入って麻雀でもやろうという雰囲気だった」という記載があったことも記憶している(今夜のところは、著作の山をかきわけるのが間に合わなかった)。それでも、だからというべきか、河口は丸田を敬愛していた。升田、大山に次する偉大な、同じ時代を生きた棋士と思っていた。

*

丸田の評伝が、フォト・エッセーがもし世に出るなら、私は、いの一番に、読んでみたいと思う1人である。

棋士人生を支えた奥様、雍子さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げたい。

人生の棋譜この一局 (新潮文庫)

人生の棋譜この一局 (新潮文庫)

  • 作者:河口 俊彦
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1999/11
  • メディア: 文庫