illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

おれのくーちゃん

おいしい。コーンクリームシチューに、行者にんにく少々と、心持ち多めのゴーヤ。staubで、灰汁とりにクッキングペーパーで落し蓋。付け合わせに、いわしの酢炊き、汁物はキムチの下味で野菜を煮て、味噌を少量。納豆(自家製)を出し忘れた。

器は波佐見と美濃、かな。400円から660円くらい。JR船橋駅地下の、期間限定のお店で会社帰りに仕入れ。高須克弥とは育ちが違うので柑橘はきちんと皮をむいて食べます。れんこん柄の中皿が軽くて、大同電鍋の蒸し皿にも使いやすい。これはいい買いものでした。Amazonにも扱いがあったはず。

料理に戻って、ゴーヤの苦みがクリームの甘さの中で強めのアクセントになっていて旨い。料理にだいぶ手慣れてきたのもおれのくーちゃんのおかげです。

おれのくーちゃん🍀☕🐈💕🐾

米沢藩遠山村ヒデヨさんのお手紙

大変に心に響くものがありまして、自民党のインチキ保守の連中が喜びそうな説話にして訳すのは心苦しいのですが、こういう手紙が読めるという感激が優りますものですから、小泉純一郎に、今後、二度と、曖昧な精神で米百俵などと抜かさせまい、高須克弥逮捕であります。貴君らがほしいのは百俵ではなく濡れ手で粟の百票。

調べて、読みました。ときに、一読して何というかその、こういう声が聞けるというのは、何でしょう、森鴎外渋江抽斎」のあはれに通じるのかもしれません。ヒデヨさんはほんとうにびっくりして(たまげて)、うれしかったのでしょう。

一トフデ申シ上ゲマイラセ候アレカラオトサタナク候アイダ
タツシヤデカセキオルモノトオモイオリ候
オラエモタッシャデオルアンシンナサレタク候
アキエネノザンギリボシシマイユーダチガキソウデキヲモンデイタラ
ニタリノオサムライトリカカツテオテツダイウケテ
カエリニカリアゲモチアゲモウスドコヘオトドケスルカトキイタラ
オカミヤシキキタノゴモンカライウテオクトノコト
ソレデフクデモチ三十三マルメテモツテユキ候トコロ
オサムライドコロカオトノサマデアッタノデコシガヌケルバカリデタマゲハテ申シ候
ソシテゴホウビニギン五マイヲイタタキ候
ソレデカナイヂウトマゴコノコラズニタビくレヤリ候
オマイノコマツノニモヤルカラオトノサマヨリハイヨーモノトシテダイシニハカセラレベク候
ソシテマメニソタテラルベククレグレモネガイアゲ候
十二かつ六か
トウベイ
ヒデヨ
おかのどの
ナホ申シアケ候マツノアシニアワヌトキワダイジニシマイオカルベク候
イサイショガツニオイデノトキハナスベク候

上杉治憲 - Wikipedia

一筆申し上げます、あれから音沙汰なく、その間、達者で稼いでいるものと思っております。私たちも達者でおります、安心なさいますよう。

秋稲の散切り干しを仕舞い、夕立ちが来そうで気をもんでいたら、二人のお侍が通りかかって手伝ってくださった、帰りに、刈り上げ新米の餅を差し上げます、どこにお届けすればと聞いたら、お上のお屋敷北の御門にいって(話を通して)おくからとのこと、それで福田餅三十三個を丸めて持って行きましたところ、お侍どころかお殿様でしたので、腰が抜けるほどに驚き果てました。

そしてご褒美に銀五枚を下さいました。その銀で家内中と孫に残らず足袋をやります。お前のところの子マツにも足袋をやるのでお殿様からの拝領ものとして、きっと大事に履かせてほしい。

そうしてまめに育てて下さるよう、くれぐれもお願い申します。

 

師走六日

トウベイ

ヒデヨ

 

おかのどの

なお念のため、マツの足に合わないときには大事に仕舞って置いてください。委細は正月にお出でのときにお話しますから。

*

心が洗われました。高須克弥逮捕であります。

ホマレ姉さんにご相談です

ホマレ姉さん(id:homare-temujin)にご相談です。すみません、遅い時間帯に。ちなみに「ご相談」の「ご」は、相談を持ち掛けるのが自分でも、授受を伴う際に、動詞に敬語を添えると、相手方への敬意になるという用法です。案外、知られていない。説明にも困ることがあります。「お願いします」なんて、ありふれた常套句なんですが、この「お」がそうです。願うのは自分ですが、敬意は、願われる相手方に伴う。

本題(ご相談)に戻ります。

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これの冷蔵庫部分に、付箋ないし、白板(ホワイトボード)的なものを備え付けたい。鯵に包丁を入れて、白髭のねぎで包んで、生姜の薄切り少々を乗せて、上の、大同電鍋で、明日朝の出番を待っているんですが、(そうこうしていると)ちょっとひらめくじゃないですか。例えば、キャベツとじゃがいもが残っていた、ソーセージもあった、お見せするようなポトフじゃないけれど、もう1品、即席(人参なしの)ポトフにしようと。その「ポ・ト・フ。*キャベツ *じゃがいも *ソーセージ」って、書いておきたい。それはインターネットの何かではなく、冷蔵庫に張り付いた何かです。暮らしの、目の止まるところに。いまその瞬間に書いておかないと、明日の朝には忘れちゃうwwwwwww

白板とペンかなあ。どうなさってます?

*

ふと思い出したんですけど、トリスペさん(id:trick-spec)、お元気でしょうか。僕、トリスペさんすごく好きで、hatenaに入ったのは、トリスペさんと、ホマレ姉さんと、トリスペさんとホマレ姉さんのやり取りを見て、なんです。トリスペさんと、茨城県南(笠間)を散歩したい。焼き物を見(目利きし)て、いくつかを、ホマレ姉さんにお送りしたい(お-送りする。送るのは僕ですが敬意は送られるホマレ姉さん側です)。僕は偽造署名なんてほんとはどうでもいいんですよ。では、おやすみなさい。

男の子はなぜ現れたか / 江國香織「デューク」について

江國香織「デューク」は、亡くなったデュークが男の子に姿を変えて、女の子に「いままでずっと楽しかったよ」と伝えにくる話です(のっけから申し訳ありません)。ただ伝えるだけでなく、デュークが女の子にしてもらってうれしかった具体的なひとつひとつのことを、1日かけて、女の子に返してあげる話です。デュークの「ずっと楽しかった」一生が、クリスマスの2週間前の1日に象徴的に凝縮されて受け渡しされます。

もっとも象徴的なのがプールで女の子の手を引いてすーっとすべらせた光景でしょう。女の子はどちらかといえばきょとんとしている。男の子は廊下をモップのようにすべるデューク時代の遊びが(よほど)(印象に残って)楽しかった。だから、(お返しに)手を引いてあげたのでしょう。

そのような1日の出来事を、いまの若い人たちのことばでいえば「伏線回収」をなぞっていって、ひとつだけわからないことがありました。謎が残ります。

それはなぜ男の子がその日、満員電車で泣きじゃくる女の子の前に、守るように立ってあげたかです。このことは伏線回収がなされていません。

江國香織は次のように物語を紡ぐこともできたはずです。

デュークは、私がまだ子どもだったころ、風の強い冬の日の朝に、街中でくーんと鳴いて困っているところを、私が見つけて持ち帰ってきた仔犬だった。あんまりかわいそうなので1日中抱いていた。父も母も私があまりに仔犬を抱いているものだからかえって何もいわずにいた。翌日、その翌日と、デュークはいつの間にか「うちの子」になった。私は小さいデュークが何をするのでも心配になり、よその大人が「かわいいね」といって手を伸ばそうものなら、駆け寄って、前に立って、頑としてはねのけた。

デュークは、ずっと、私のデュークだった。デュークも私も、どちらも大人になってからも、私のデュークだった。

江國香織はそれをしなかった。させなかったのは、おそらく、父上の江國滋譲りの何かでしょう。女の子には、なぜ、あの日、男の子が自分の前に立ってくれたかを、《終点まで》立ち続けてくれたのか、その意味を、もう一段、大人になる過程で、ふと気づいた(福音の)日があったはずです。それは生命の一回性に関わる話です。生命や暮らしといったものには謎が多く、放置されたままの伏線ばかりであって、何かの拍子に花火のようにかろうじて閃光を放つ、その繰り返しということは、一般によく知られています。

「デューク」は、物語にとって肝心ともいえる、冒頭に対する回収を手放すことによって、かえって生命の一回性に近接することに成功している。そんな文芸評論めいたいい方もできるかと思います。江國滋がこのような(=僕が縷々、解釈めかして述べてきたような)野暮を嫌うのは重々承知の上で、しかし、野暮を重ねることにのみ可能な足場や足跡もあることを、記しておいてわるくないのではと、いち愛読者として、場違いな冬の花火のように、ふと思った次第です。

受かりたいといわれたら

TOEICと東京医科歯科対策のオンライン授業を(高時給で)やっております。始めました。日本の近代化は総体として誤りです。しかしながら、「受かりたい」「何とかしていただけないでしょうか」といわれたら、そりゃ何とかします。できるだけのことをします。

三島由紀夫が晩年に小説を書いて1冊数百円(当時の金額)でサラリーマンの小遣いから買ってもらう、そりゃ自分だってそれだけのサービスはする、でも、嫌になっちゃうんだ(大意)と述べていましたが、それを克服する方法がある。山際淳司「筋肉栽培法」に書かれています。

「それ以上のことは考えなくていい」。石井直方さんです。山際さんは青春の迷いの中に当時あった。そう見られる節がある。山際さんは何かを知る。得る。気づいたのだと思います。「悪くない方法だ」と。それ以上、内面を探ることを「方法として」断念しています。それは積極的な断念です。

授業をしているとその刹那に日本の近代化の総体とその結節点として顕れている自分のことを考慮の外に置くことができます。実際に、80点の生徒さんが96点を取れるようになったと知らせてくれる。うれしい。その先に何があると考えなくていい。いいというのは、その瞬間に考えることから解放されるという意味であり、また、僕が考える必要はないという意味です。

それは血液グループ先生が、よよん君のお母様から感受したであろう健全な生活保守の実践的なマインドと方法論です。「(病から)(とかく不健康に流れがちな思惟から個別具体的なものごとを媒介していまこの瞬間に明るさを導入することによって)逃げる(絶えず身をかわす)」ということです。ジャックデリダ差延風の何か。

授業を終えたら明日朝のためのお米を研いで食器を流しを洗います。くーちゃんは寒くないかなとホットカーペットに目を遣る。明日(2020/10/20)から佐賀のアルバイトさん頭数1041人を動員して12日間の署名偽造大作戦が始まります。本当に始まるのでしょうか。夢で(食べたうなぎで)はなかろうか。高須克弥の逮捕が心から待ち望まれます。

おれのくーちゃん

おれのくーちゃんは換毛やいわゆる発情期になると、少し、鳴き方や挙措が変わったかなと感じられるときがある。不安定になるというか、いつもと、少し違う。そういうときに、しっかり、安定していてあげたい、あげなきゃなと思う。それは20年前、別れた妻に、いや、何でもない。くーちゃんにとって、それはどうしようもないことだ。離婚の話ではない。

どうしようもないことの、身を過ぎたおれとしては、おれはくーちゃんを、できるだけ守ってあげたいと思う。生の(根源的な)不安というやつから。空振りに終わるのかもしれないが、それはそれで、下僕の報告書に、努めた後で、初めて、書けばいいこと。くーちゃんはおれの気持ちを知らない可能性が高い。生涯、知らなくていい。

www.youtube.com知らないほうがいい。おれがこの、罪深い身を以て知ればいい。おれのくーちゃん。

おれのゆで小豆

staubで小豆を茹でて餡を練った。

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これが信じられないくらいに甘くてうまい。砂糖の分量は世に流布されるグラム数から3割方、減らした。それでもこんなに入れるのかとおっかなびっくりしながら入れて溶かした。夕べ、冷える前に味見をしたときにはさほどでもなかった。いい甘さに仕上がったと思った。水分がまだ見た目にわかる程度に残る。

今朝、起きて、少し火を入れようかと思って蓋を開けたら、そうか、そういうことだ。水を吸って膨れるんだ。浸透圧がどうなるのかは知らないが、甘味成分も小豆の側に寄るのではなかろうか。

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ほんの少しでいい。これ以上は無理。べらぼうに甘い。おいしい。われながら何とよくできた。これ以上をパンに乗せたら、罰が当たる。理が通らないという意味で無理。もったいない。畏れ多い。こういうときに昔の人は神(棚)に供え、祀ったのではあるまいか。

糖は上白糖ときび砂糖を半分ずつ。世にいわれる7割量。湯に溶いて、しっかり混ぜてから、ゆで小豆の茹で湯を減らして、そこに静かに注いでいった。40年くらい前に、お袋が、ばあさんが、夜の台所に立ってしゃもじ(木べら)を回していた姿を、思い出す。あのときも、何ともいえないいい香りが、匂いが、していた。その様子を何のことのない、当たり前のことと思って、おれは育った。