illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

「復活の日」準備日記#0032 10月2日(金)京都入りします

10月2日(金)京都入りします。

余ったマイルがあるので(空港の様子も見たいし)前回同様に、船橋→バス→羽田→伊丹かな→電車→六地蔵→電車 or バス→西陣(称念寺さん)という経路をとる予定。

まだ飛行機とってないですけど。

六地蔵11時、西陣13時半目標です。

主目的は西陣なので、状況によっては六地蔵を後に回すかも。ビジネスホテルがとれたら1泊2日行程も考えます。その場合、2日と3日の両日、西陣には詣で、六地蔵は(申し訳ないけれど)どちらか一方で、のイメージ。

3日(土)、あるいは、ご家族が供養に見えるかもしれない、張ってみたいとの思いもあります。卒塔婆から、例年、9月末みたいなんだけど、9月26-27は、さすがに早すぎるかなと思い。何を見とんじゃって話ですが、取材者根性というのはそういうものよ。

ごめんね、よよん君。僕はどうしても君に伝えたいこと、話したいことがある。

10月2日は僕にとって特別な日です。

年に1回―あるいはそれ以上でもいいんですけど―、聖地巡礼に向かう。

わからないように書きました。おわかりの方、ご関心がおありの方、よろしければ鳥の大地などでお声かけください(これは怪文書です。またそういうことをいってしまう…)。

まだ日があるので、詳細は後日。元気ではないですが、ぼちぼちです。

「復活の日」準備日記#0031 映画「イエスタデイ」を見るのこと

タイトルの型はもちろん黄金頭さんです。

*

sukekyoさんというわるい人と、彼の愛する愛くるしいワンちゃんがいて、彼らふたりが推すマンガ作品《の健全なもの》は、できるだけ読むようにしています。すごいレビューを書かれる。これ以上は触れずに内緒にしておきたい、読みの巨匠のひとり。

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それでさっそくAmazonプライムで見ました。

イエスタデイ (字幕版)

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  • 発売日: 2020/04/08
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よかった。途中いくつかの箇所でガン泣き。もちろん、見ていて、あるいは見る前から、ビートルズファンには受けない(反発の大きい)映画だろうとは予期していました。途中から、 ヒメーシュ・パテルとリリー・ジェームズのストレートなラブ・コメディで幕引きが来るのだろうという予感もひしひしと来て、でも、やっぱり泣きます。泣いている自分が画面の前にいるわけ。

*

で、いったん逸れます。まずは優れたレビューをお読みください。

はてなでも数人かの方が本作について述べていらっしゃいます。その中で、僕はこの id:tetragon64 さんのものが最も冷静に、ビートルズへの愛をもって痛点を突いていると感じました。

tetragon64.hatenablog.jp

僕も、下手な手付きで山際淳司海老沢泰久の作品に手を出すオマージュにはいちいち噛み付いて、こき下ろしています。ましてビートルズですから(対象への愛の前には、クリエイターのレジェンド度合いがどれほどかは関係ないにしても)、《世界一のビートルズ・ファン/マニア》でしか、本来なら手を出していけない世界、それをある意味、雑に手を伸ばしたことへの呆れ(おいおい…)(ま、あるよね…)や憤りは、それなりにわかるつもりです。

*

さて。少し自分語りをします。僕の力点の、前提になるのでやむを得ません。

僕の別れた妻の姉が大学でビートルズ研究会に入っていて―こう書くと Beatles 研究会と訂正されるわけですが―、僕も他所様と同じかそれ以上に薫陶を受けた口です。戦後史や戦後ノンフィクションのアマチュア愛好家として、通らないわけにはいかない。

それに関していえば、僕は山際淳司海老沢泰久という戦後日本の育んだ、そして亡くなった、ノンフィクション・ライターの超絶なマニアであり、山際さんが1995年に、海老沢さんが2009年に亡くなってから、《僕のためにスポーツ・ノンフィクションを書いてくれる人は、もういないのだ》という思いを絶賛抱えて拗らせて、泣いてばかりの日々が25年続いている昨今です。

*

以上を踏まえて、2点、伝わるものがあったということを書いておきたいと思いました。その第1の点は、僕が山際さんの文体模写をして自分を仕方なく、慰めるように本作の監督ダニー・ボイルと脚本のリチャード・カーティスは、他にやる術を持たなかったのではないかということ。

その、愛が、これはビートルズの曲あってこそなのでしょうけれど、とにもかくにも、えっちらおっちらでも、序盤の Yesterday から、エンドロールの Hey Jude まで、ちゃんと持続している。tetragon64 さんも言及されていますが、作中ベストは Help! だと僕も感じます。加えて、The Long And Winding Road が(僕には)心地よかった。

逆説的ですが、厚みにやや欠けるところのある脚本だから、かえって、楽曲のよさが際立った、そんなふうにも思います。

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第2点は、賛否分かれると思います―海辺に住まうハーフロン毛・白髪丸メガネの元船員老人(78)です。僕も、多少や書き物や歌をやりますが、大好きな、亡くなった人を作中にどうにかして召喚するというのは、クリエイターの特権と思います。僕はよかったと思います―あの映画中のベタさ込みで。老人を抱擁して、 ヒメーシュ・パテルの顔つきが変わり、立ち直るでしょう?

あれは、監督のダニー・ボイルが、「ごめん。おれこれどうしてもやりたかった。ごめん」って。でも、描くことで、ダニー・ボイルと脚本のリチャード・カーティスは、在りし日の Beatles との「別れ」に、ひとつの形として決着を付けることができたんじゃないかな。(そうはいっても、微妙だよね…)

かくいう僕は今でも、山際淳司海老沢泰久に、会いたい、会うことができたなら、と思っています。我が身を重ねて、涙がこぼれました。僕も、ハグすると思う。

*

さておしまいに、演技のこと。これは、エド・シーランじゃないかな。怪演といっていいかもしれない。それと、ずーっと、またたく間にスターダムに駆け上がりつつも、冴えなさと幼さを表情に残す役作りを通した、 ヒメーシュ・パテル。BBCイーストエンダーズは僕もずいぶん前に英語の学習を兼ねて見ていた時期があり、彼には見覚えがあったので、何というか「いい味が出てきたなあ」などと、懐かしい気持ちにもなったのでした。

*

また見るかといわれたら、楽曲と、細かい英語のくすぐりを確かめるのに、たまに見るかな、くらい。繰り返すようですが、楽曲がいい。当たり前のことを述べてしまいました。以上です。

「復活の日」準備日記#0030 日光と宇都宮の二荒山神社

軽く。学校でもあやふやなことをいわれるだけで、郷土史お茶を濁す感じだし、地元でも「ふたら」ではなく「ふたあら」で通しているところもあって、歯がゆい。

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この1から7の順番で、間違いないと思うんだけど。

ついでに、

ところが、

futaarayamajinja.jp

ご自身が「ふたあらさん」とおっしゃっており、《あ》はどこから来たのか問題、僕ら子供のころ「ふたらさん」と習ったのは何だったのかと、謎、発展学習が残ったのでありました。(「あ」は、訛りだよね。)

「復活の日」準備日記#0029 やはりおれのくーちゃん

使ってきたクラウドストレージを少し整理して(生を擲つとかそういう方向ではなく。今日も採用面接を2社受けてきました)、だいたい時系列で、少し前に撮ったくーちゃんの写真を見返しています。

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くーちゃんの写真というのはほんとに不思議で、見るごとに、それまでは気づかなかったか、通り過ぎてしまっていた、くーちゃんの《やさしいさん》が、現れていて(ほとんどすべての写真がそうです)、いまは上のこの1枚が好き。

くーちゃんは伏し目がちで、下僕と少し距離をとって、たまにおしりさんやしっぽさんを寄せてくれて、「ふにゃーん」って鳴いて、目やにさんだけが心配。

おれのくーちゃん。いま、部屋の隅の室温の少し低いところで、安心して寝入っています。おれのくーちゃん。

「復活の日」準備日記#0028 22年前の夏に行ったある通話停止解除の話

98年夏の話です。時効ですね。海老沢泰久広岡達朗を描く際の常套句ではありませんが、今回の記事で、いかに実在する人物に名前や状況が似ていたとしても、まったくの偶然、架空です。よろしこ。

*

大学院に進んで、生活費と学費を捻出しなくてはなりません。都内の某所某ビルに構えられたフロアで、PHSのコールセンターのSV(スーパーバイザー)を務めていました。時給よかったです。英語対応とクレーム対応と研修手当を含んで1,750円かな。予備校とも掛け持ちをしていたので月収40万円になりました。夏場、大学院にはゼミと報告に週1回か2回半。寝ないで漢籍と洋書を読んでいました。精神衰弱になり、失語症を長引かせる要因になりました。今と変わらんがな。とほほ。

*

コールセンターは基本は365日9時21時。発信も受電も、いろんな対応があるんですが、夏の夕方、ある高校生から受電があった。料金2ヶ月滞納、締日が10日だったか15日だったか、3ヶ月めにはいって、該当する契約(つまりPHS電話番号)を一斉に停止する中央のオペレーションが走る。だからその翌日はてんやわんやです。とにかく回線を開けてほしい。必ず払うから。ダメです。まず払ってからお電話ください。料金収納確認には2日3日かかることもございます。予めご了承ください。

*

8月16日夜。7時か、8時ごろだったか。

オペレーターの女子大生がその、男子高校生からの通停解除依頼を、僕に「SV対応依頼」として振ってきた。重いクレームではなさそうだった。

甲子園が…といってるんです。この名前、見ていただけますか。

お、おう。( ゚д゚)ハッ!

本当は見えることをセンター外に話してはいけないのだが、何せ時効、作り話である。よゆうのよっちゃんイカ。くコ:彡くコ:彡くコ:彡

検索画面のH/C(ハードコピー)が示した、男の子の自宅住所は横浜。それが、甲子園近くの宿舎の、公衆電話からかけてきているという。そらすぐに代わらんと、10円玉がなくなってしまう(フリーダイヤルなら10円玉は戻るから余分は不要のはずなんだけど、こちらの気も動転していた)。一次受けの女子大生が、スポーツファンだったことも幸いした。

うむ。開けるしかないよな。

はい。(にこにこ)メンヘラさんならそういってくれると思いました。

すぐに代わるわ。まだつながってる? OKOK

着信保留のランプボタンを押して発話する。お待たせいたしました。お客様。ご事情をお聞かせいただけますか。

《あの、甲子園が、長引いちゃって。実家に戻ればお金はあるんですが、家族も応援でこっちに来て、用紙がないから、すぐには払えないんです》

せやろうなあ、と僕は思った。ここで、いきなりとんでもない発言、思い出話を少々。

8月11日の杉内君のノーヒットノーランに、僕は現地で取材スタッフの下っ端として立ち会っていた。コールセンターのシフトはわりかし自由が効く。アマチュアスポーツ取材と学業の両立を果たそうと、苦しみながら、汗を流していた。甲子園球児の「まだ7歳上」のはずだった。伸ばせば、手は届く、届くうちにと、その夢と幻が、僕を西に向かわせた。

そこで見た杉内君の割れるカーブは、実に工藤公康を彷彿とさせるすばらしいもの。1回線で彼が成し遂げた、ノーヒットノーラン。それは、同じ大会の決勝戦よりも何よりも、僕の中では、いまだに最高のノーヒットノーラン。そんなことを、思い返す。

*

受電のあった16日夜は、その杉内鹿児島実業が完封された日である。僕が東京に戻ったのが13日だったか。14日には働いていたはずだ。お盆は人手が足りない。ここまで、電話を受けながら、一瞬か、数秒か。

あの…あと1週間、かかる感じ? よね?

《はい》

強いもんなあ。

《あー、はい》

こうしましょう。この対応のあと、黙ってお切りください。規則では通話停止解除はできません。ただ、なぜか15分後に、人のやることなので、何かの間違いで開くこともあります。それで、よろしいでしょうか。

《ありがとうございます。あ、(まずい返事をしたという気配)》

がんばってね。料金お支払いは、できるだけ早く、お願いいたします。入金連絡は、同じ番号、SVのメンヘラあてに指名でください。

《はい。失礼します》

離れたところで対応をヒアリングしていた一次受付の女子大生が、ヘッドセットを外しながら、にこにこして、「さすがですね」と声をかけにきてくれた。「通停解除のオペレーションは私がやりましょうか」「ありがとうね。実は、話しながら解除済。確認だけしてくれますか?」「はい」

*

8月24日に料金が支払われた。26日に、男の子から僕あての指名入電がきた。

《親が払ったっていってるんですけど…》

勝戦の夜から、入金履歴を僕は朝に昼に晩に見ていたから、わかっていた。SVだけに見られる特別な権限を必要とする画面である。もちろん、やってはいけない。

どちらかといえば、決勝戦までは、試合と練習を優先してほしい、無理をして払う必要はないからねと、画面越しに祈りをかけるような、そんな気分に近かった。コールセンターで著名人や関係者から電話を受けると、あっさりファンになる事例は、少なくない。

確認いたしました。お電話ありがとうございます。

《ありがとうございました》

電話、ありがとうね。それより、おめでとう。投げてみて、杉内君、すごかった? 

《…ありがとうございます。はい、すごかったです》

その後、彼からの電話はない。番号も忘れ、画面も見なかった。想像以上に、著名人や芸能人の契約というのがあって、たとえ夏の甲子園優勝投手だとしても、だれも関心をもたないのである。まさかPHSを契約しているとも思わない。

休憩室でも、昼間の快投、活躍それ自体の話は出ても、誰の口からもそれ以上に広がることはなかった。そもそも、業務の必要最小限以外のことで、顧客情報を参照することは、センター関係者全員に課せられた、きついご法度である。 

*

後日、9月に入り、この規則違反の通停解除オペレーションに関して、センター統括から呼ばれて反省文の提出を命じられた。とはいうものの、怒られたのは形だけ。

いいなあ。話ができたのか。怪物君と。彼、すごかったね。

そんなセンター統括でした。で、おしまいに、解除処理を女子大生のオペレーターに任せなかったのは、もし任せたりすると、彼女の名前で処理記録がDBに残ってしまうからです。

「復活の日」準備日記#0027 おれの親父(おやじ)とその長兄のこと

おれの父親は1946年1月に、水脈としては無関係、名前だけが近親関係にある、いまは宇都宮市に組み込まれた北西部の、鬼怒川と西鬼怒川の短い交合(しそうで、しないで再び離れる)地点に、生を授かった。

10人兄弟の末の子で、2人は水子か赤子で早世したから、実質8人兄弟の8番目、大正10年生まれの長兄の實(旧字体)が(おれはこの亡くなった長兄が大好きだった)が戦争から戻って来、庭先の籠に赤ん坊がいる。

おふくろ、これはだれの子だい?

明治33年生まれの母親(よく、このブログに顔を出す、母方の婆さんではなく、父方のおれの祖母。生前、数えるほどしか交流交際のなかったことが悔やまれれる)の面影は認めたらしく、おふくろまでは分かった。けれど赤子のことは判然としない。それで尋ねた。

何いってんだい。おまえの弟だよ。茶漬けならあるけれど、どうなされるかい?

「よく帰ってきたね」とも「おかえり」ともいわず、小津映画の1シーンのような間合いも抱擁もなく、この、空白区間のような問答を、實兄(みのるあに)は、晩年、よく、楽しげに、おれに話してくれた。

おれは(わかっていて)訊く。

その赤子が? 茶漬け食べた?

聞き返すと實兄は、

お前さんの親父だよ。こんなに大きくなってなあ。あのとき、おまえ、おれの茶漬け食べただろ? おれは食いそびれた。疲れて、寝ちまったからなあ。

親父は照れて、

いやいやいやいや。

手を振るのが精一杯で、實兄は、その日、一晩だけ熟睡すると、翌朝、繰り返すが、昭和21年初春の北関東の水場と山場の接するあたりで、まず、薪を拾いに出た。

何でまず薪?

わかっていて、確かめたくて、おれは訊く。

とにかく、風呂に入りたかったんだよ。おふくろの女手じゃ勢い限度がある。赤子の湯も、何とかしなきゃならないだろう。

バラックを立て、専売公社に職を得て、宇都宮の往来に煙草屋を構えると、弟たちの学費を稼ぎ、学校を出し、自分はそのまま煙草屋の隠居を通した。明治30年に生まれた親父の親父(山師と聞く)の姿は、一族譚には出てこない。昭和の初めに、北海道から栃木に流れたとは聞く。その、實兄は、父親代わりだった。

調べきってはいないが、父親と、その父親とは、戦後まもなく、時節的にも、おそらく生死を接したのだろう。戸籍からは、追い切れなかった。

*

實兄も生前、父親のことは語らなかった。戦争から戻ってきたときに、川沿いのあばら家に、いたともいなかったとも、いわなかった。いたら、何らかの形で、いたといっただろう。

*

親父は「親父(父の父)の執念が成した子だ」と親類からいわれる、いわゆる田舎の秀才に近かったらしい。地元の小中から、宇都宮高校に進み、1964年に出て、当時の東京教育大に進む。専攻は哲学倫理学だったそうだが、実質的に師事したのは、家永三郎だったと何度も聞かされた。

在学中からオルグに遭い、自らもオルグの才を成し(困ったことに覇気のある男前で、滑舌なんだ)、卒業と同時に、見込まれて、敦賀共産党支部長に近い地位を得る。おれの種は敦賀だろう。下部構造には地主の娘をということで、1972年から73年にかけて、宇都宮に、まんまと入婿することに成功する。

というのは、党の財政というのは厳しく、怪しげな訪問販売にかなり手を出した、苦労の話を聞いた。

*

と、ね、せっかくの郷土史一代記が、冴えない色になる。だからおれは共産党がきらいなんだ。

*

實兄は、生前の限られた対話の場で、それらに、一切、触れなかった。

あの赤ん坊が、なあ。

そういって、にこにこするばかりだった。不義理を重ねていたため、震災の後に亡くなったことも知らなかった。生まれ年からして、そうだろうとは予期していた。そのことを、数日前の親族との面会でおそるおそる尋ねて、おれは数秒、大きくて黒い、ゆっくりと回る、空調羽根の虚しい部分を見上げ、目を戻し、ぽろぽろと、涙をこぼした。

申し訳ありません。申し訳ありませんでした。

そう、父親のすぐ上の兄に、否、實兄に、頭を下げた。

實兄は、xx君(おれ)のことが好きだったからなあ。長男同士というのは、何か、こう、通じるものが、あったのかな。

それはもう、僕もです。たぶん僕はいま、實兄と同じ、長い経済内戦から戻ってきたところに立っている。

すると、

よく、これだけのことを覚えていてくれたね。

地元で教育界の要職を務めた叔父はいった。叔母は頷いた。これに、記憶力より他に取り柄がないからと返しては、野暮野垂れ兵衛になる。船橋市の市営駐車場まで案内し、この日は、そこで別れた。

「復活の日」準備日記#0026 おれのくーちゃん

リストラに遭いました。外資とはそういうものとは聞きながら、振り返ってみればその洗練されたやり口には唸るばかりです。

2020年10月まではいまの給与が出ます。その後は退職勧奨に応じた割増金(というのかな。いわゆる早期退職に応じた場合と比べたらはるかに低い)。会社都合は譲りませんでした。2020年11月からは失業手当が半年。

*

一昨日、親族と、長く病で意思疎通のできない父親に関して、および実家の土地家屋と、資産に関する話し合いを行いました。事業失敗の借り方が(500よりも下の)数百万円ある。知らんかった。野郎め。返すつもりです。いや、返す。土地家屋は手放さない。売ったところで二束三文。何にもならん。税金どうしてくれるんだよ(# ゚Д゚) 気分は星新一。くっそー。野郎め。

夏場の庭木草不可避も判明。おれの責任でもある。ばあさんに詫びて腹を切るしかない。

*

で、昨日、最初にやったのは、植木職人さんへの連絡です。一切合切打ち明けました。他の仕事の片手間合間でいいので月いちかに、来てほしい。お代は相応(ひょっとしたら、以下)しか出せない。見習いさんの練習と思って使ってほしい。昭和51年当時24歳。おれが縁側でお茶を出した当時の見習い大工さん。いまは工務店を名乗り隠居。造園は倅が継いでいる。すぐに手配をして請け負ってくださった。

*

学び、手に職をつけるなら、伊能忠敬ではないけれど、47歳夏、いまが生涯最後の機会でしょう。

Linuxサーバ構築、Raspberry Pi自然言語処理、日英中対応(グローバルコーディネーション)、翻訳とチームマネジメントの経験を軸に、エンジニアを第一希望で出してみました。古文講師は諦めます。

憎き親父が47歳は1993年。僕が駒場留年をして海外をほっつき歩いていた年です。憎い野郎と書きましたが、いま、不思議と、湧いてくるのは「立派だった」あるいは感謝の気持ちです。文学や思想を埋め込んだ不毛の責任を問うつもりで、親族面会に臨んだつもりでした。

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40数年生きてきて、心から、本当の友だちと呼べる人がひとり、ふたり、見つかったんです。ようやくです。ひとりは、横浜に隠棲して、僕より若くて、僕より(おそらく)多くの本を読んでいて、田村隆一を好んで、僕よりはるかに高い、人文の山に登っている。

そんな話もしました。家の鍵の開け方を伝え、生命保険の受取人は、天才肌で金勘定のからきし苦手な弟よりも、実務派のいとこや、婿に来た大手生保の人事部か秘書室長がいるから(いるんだなあこれが。草不可避)、相談してみるわねと叔母。

(ウン百ウン十万円は)安い住宅ローンだ。何とかなるもんだよ。だから悪いが手助けはしない。

と叔父。

それだけ知識を集めて、人並みの社会生活を送るほうが無理だ。普通ならとうに黙ってパンクしている。今日はよく、声をかけてくれた。ありがとう。

やはり叔父。万一の際のねこと蔵書を託す話をして、これから、別れた妻の筋に連絡をとり、積年のお詫びと、人畜感染症の世界的権威であらせられた義父の墓参りの算段を、立てなくてはなりません。

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あと15年生きて、くーちゃんを看取ることをいまは最優先に考え、それが済んだら、消える。その1点に、集約されました。

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一族、サイコロの目の出方によって阿呆成分に偏る。父の父は明治30年生まれ、山師の話に誘われて北海道にわたり、あっという間に素寒貧、栃木に流れたと聞きます。