illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

私信2 - いつか、書くことが好きになる日のために

今週のお題「ブログ初心者に贈る言葉

昨日の続きでもあります。久しぶりの山際淳司/津田真男の話でもあります。

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津田真男さんのことはみなさんもうきっとご存じでしょう。

80年の「幻の」モスクワ五輪代表選手のひとりです。種目はシングルスカル。都内の名門高校から浪人して東海大学に進み日々流されていくうちに「これじゃだめだ」と思い、自己回復を思い立つ。75年(昭和50年)のことです。サッカーの得意な津田青年の選んだ手段は「オリンピックで金メダル」でした。いろいろあってシングルスカルという当時「超」のつくマイナー競技を選びます。旧態依然としたボートの製造方法にも注文をつけ、孤立無援の中で自分と練習量の契約を結び、「エゴイスティックなまでに」トレーニングに打ち込む。練習開始から1年もすると、国内選考会で上位に食い込むようになります。

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76年のモントリオールでも本人としては出場に期待しました。しかし漕艇協会はシングルスカルの選手をモントリオールに送ることを見送ります(代わりに、エイトを送った)。

津田さんは、そこで挫折を覚えない。

なぜなら、競技歴15年の田中選手がいたからです。「もし、シングルスカルが競技種目に選ばれたとして、代表は僕ではなく田中選手だったはずです」大卒新卒での就職を棒に振り、「こうなったらメダルでも取らないと収支が合わない」と新たに決意した津田選手はそれまで以上にトレーニングにのめり込むようになります。そして破竹の連勝、モスクワ代表選出…

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本作「たった一人のオリンピック」は、山際淳司の初期傑作中の傑作です。

このこともだいぶ知られてきていることと思う。けれど山際淳司研究の第一人者を自称する私はみなさんがあまり気づいていない問題をひとつ示したい。

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それは、津田真男さんはボートが好きで始めたのではなく、自己回復の手段として選んだということです。田中選手はそのことを聞いて、苦く思っていたらしい。山際淳司ももちろんそのことに気づいていた。だから本作は津田がボートをやめて当時の日電に就職するところで閉じています。

彼はモスクワ五輪の代表選手に選ばれた。その五輪に日本が参加しなかったのは周知のとおりである。《結局は》と、彼はいった。《自分のためにやってきたんです。国のためでも大学のためでもなかった。自分のため、ただそれだけです。だからボートを続けることにこだわることができた。バイトをしながらのカツカツの生活でもボートを続けられた》
津田真男は、現在、ある電気メーカーに勤めている。ボートはやっていない。

 (「たった一人のオリンピック」P.86/角川文庫『スローカーブを、もう一球』所収)

スローカーブを、もう一球 (角川文庫)

スローカーブを、もう一球 (角川文庫)

 

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山際さん自身、書くことが好きでライターになったのではどうやらなさそうでもあります。ご存じでしたか。

「書くことが他人よりも速かった」「大学に、5年目もいることになり」「当時のアパートで、ペンと電話があれば始められる仕事をすることになった」と、記しています(『男たちのゲームセット』他)。また、ライター生活の中で、書くことを二度三度、リセットしたりもしている。そう宣言して、北米に旅に出たりね。

余談ですが、山際さんのご子息(長男)のお名前は星司さんとおっしゃいます。山際さんに「スター・ハンティング」という印象的な短編があって、北米の印象的な夜を思い出して命名されたのではないか。僕の、勝手な想像です。

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津田真男に話を戻します。

しかし―前にも少し触れましたが―津田さんは、実はボートをそれ以降も続ける/再開し、継続します。

dk4130523.hatenablog.com

(我ながら実にたどたどしいですが)ここで紹介しています。

で、おそらく、津田さんはいつしか、ボートが好きになっていったのではないかと僕は思う。あるいは、ちょっと複雑な言い回しになるけれど、「いつしかボートを好きになっていた自分」を発見したのではないか。朝日新聞1997年5月2日付け夕刊スポーツ面「幻の五輪代表 闘志今なお」に掲載されている、ボートを漕ぐ津田さんの表情には、何かうっすらと幸せそうな表情が浮かんでいるように僕には見えます。

ぜひ、図書館などでご自身で検索し、お手にとってみてください。

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僕は、書くことはいまでも嫌いです。

またいつもの言い訳をしますが、僕は本質的には読者です。出されたご飯をおいしく食べたい。それ以上の至福はありません――というのが根底にあるから、うまくならない。わかっています。95年に山際さんが、09年に海老沢泰久さんが亡くなって、僕はもはや僕のために物語を紡いでくれる人のいないことを知った。泣いて喚いて、荒れ狂いました。

僕はのろのろと立ち上がり、「自己回復のために」自分で書くことを選んだ。

津田さんがかつてサッカーで鍛えた自身の足腰の強さと競技人口の少なさなどから、よく吟味し、決断し、努力すれば勝てるのではないかと見極めたように、僕はノンフィクションなら書けるのではと思いました。

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1952年生まれの津田さんが、朝日新聞の写真で幸せそうな表情を浮かべているのが97年、45歳のときです。僕も同じ歳になりました。そして、津田選手にとって田中選手がいたように、僕には――それくらい、黄金頭さんを知ったことは僕には画期的なことでした(笑)。

goldhead.hatenablog.com

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そして、それだけではありません。はてなには、おひとりおひとりのお名前を挙げることは控えますが、こんな僕の書いたものでも目を通して、たまには待っているよと仰ってくださる方がいる。おひとかただけ。id:kash06 さん、いつも本当にありがとうございます。

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いま、若い自称ライターの方が、自己回復のいち手段として書くことを選んでいますね。いつかしっぺ返しが来るぞと僕は苦々しくにこやかな気持ちで眺めているわけですが、その中から、ひとりくらいは、あのとき、実は書くことが自分を支えていたんだと、10年経って、自分の歩んできた道のりを振り返ることができたら、もしひとりでもできたなら、詩歌や、月や海の見え方が、きっと違ってくる。そんな気がしています。

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(本当に、好きな気持ちでなければ、ノンフィクションや物語、ましてや、ひとの命に関わるような話は、書くことができないですものね。何をいまさら…)

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季雲納言 (id:kikumonagon)さん、実はここまでお伝えしたいと思って、昨晩の記事を書き始めたのでした。ご自身が本当にお好きな道を、選ばれたらと願っています。