illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

2022年のエリザベス・スウェイニー

エリック・ムサンバニのことを思い出した。

多分、その名前から、彼のパフォーマンスを瞬時に思い出すことの出来る人は、そう多くはないだろう。反対に、映像を見れば、ああ、あのときの彼かと笑顔を浮かべる人は、きっといるはずだ。

水泳、男子100メートル自由形。2000年のシドニー五輪

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エリック・ムサンバニ - Wikipedia

ギニアから海を越えてやってきた彼にとって、50mプールを使って100メートルを泳ぎ切るのは、生涯これが初めて。念のため記しておけば、シドニー五輪の舞台である。

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クリシュナ・サイ・ラフール・エルールという男子フィギュアの選手。2016年9月、横浜。14歳のエルールが住むインド、ハイデラバードにはアイススケートリンクがない。練習は専らローラースケート。スケート歴1年。コーチがいるわけでなく、振り付けは自分で行った。


2016 ISU Junior Grand Prix - Yokohama - Men Short Program - Krishna Sai Rahul ELURI IND

見ていてはらはらするような、不安定なジャンプと回転。

その彼に、会場全体から、温かい拍手が送られた。ちなみに、入れ違いにリンクに向かう羽生結弦選手と一瞬だけ握手を交わすシーンがある。エルール選手には、忘れられない瞬間になったはずだ。

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ここで、僕の話をするならば、かつて津田真男というアマチュアアスリートのことを書いたことがある。1970年代の半ば、彼は無名の大学生だった。サッカーの経験はある。足腰は強かった。その彼が、酒と麻雀に明け暮れる日々から立ち上がろうとオリンピックを目指した。選んだのはシングルスカル。1人漕ぎボートだ。理由は明快で、競技人口が少なく、国内上位を狙いやすかったからだと彼は語った。

僕が自分のノンフィクションにつけたタイトルは「たった一人のオリンピック」。

彼は競技機材の選定も、練習メニューの組み立ても、一人で行った。結果、破竹の勢いで彼は国内大会を勝ち進む。モスクワ五輪(1980)の出場権を得た。

その五輪に、日本が西側陣営に属するものとしてボイコットを行ったのは、周知の通りである。

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長い前置きになったが、エリザベス・スウェイニー選手の話をしたいと思って、僕はきょうここにやってきた。

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ハーバードの修士を出た、シリコンバレーのエンジニア。その彼女が、どうしても五輪に出たいと願った。ハーフパイプは世界的に見たときに、比較的、選手層が薄い。それでも米国は競技人口が多い。そのとき彼女は自分の祖父母がハンガリー国籍をもつことを思い出した。

もうひとつ、彼女がとった戦略があった。世界大会で30位以内という基準をクリアすれば、平昌への出場権が得られる。彼女はそれを成し遂げた。そして幸か不幸か、津田真男のケースとは違って、平昌大会では西側と東側の政治的事情は生じなかった。彼女は五輪出場という夢を果たし、そうして複雑なニュアンスで語られる「時の人」となった。

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2つ、記しておきたいことがある。

ひとつは、彼女、スウェイニーが競技の後で見せた笑顔のことだ。それはムサンバニや、エルールの笑顔を、僕に思い出させてくれるに十分なものだった。

もうひとつは、やはり、津田真男のことだ。

彼は自己実現、当世風にいえば承認欲求のために五輪を、シングルスカルを戦略的に使った。国の判断によってモスクワへの道が絶たれた時点で、ボートからは、引退する。彼自身、そう語ったし、僕も、自分のノンフィクションをそのような形で閉じた。

けれど、史実は少し異なる。

津田は、ボートを続けた。「ザ・トール・キング・クラブ」。金メダルを獲るために立ち上げた、会員1人だけのクラブをモスクワ後も維持し、国体への挑戦を続けた。いつのときだったか、津田が、実はいつしか、ボートを好きになって、やめられなくなったのだと僕に耳打ちしてくれたことがあった。

そんなわけで、僕は、(少しだけ上達した)スウェイニー選手が2022年、とびきりの笑顔とともに白銀のステージに戻ってきてくることを、心ひそかに待ち望んでいる。

(談=山際淳司