illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

私信 2019/1/12

私信です。いつだったか、季雲納言 (id:kikumonagon)さんが浪人を選んだようなことを読んだ覚えがあったので、いまだに副業で(今日も)センター試験対策を行ってきた僕としては少しご様子を気にしていました。先日の記事では言及ありがとうございました。変わらぬ筆致に触れることができてうれしかったです。

*

さて、重要なお題、論点をいただきましたので、順に少しだけ言及します。

*

  • 「学歴に知性や多様性がついてくるとは限らないこと」
  • 「若さとは未熟で柔軟であること」
  • 「自分が恐らくバイセクシュアルであること」
  • 「同志とは身内より信頼出来ることがあるということ」
  • 「別にいい大学に行けなくても人生が終わるわけじゃない」

*

kikumonagon.hatenablog.com

大きく、5点挙げていらっしゃるかと思います。そしておそらく、季雲納言さんのお気持ちとしてはもう1点ですね。それは最後にお話しします。

*

「学歴に知性や多様性がついてくるとは限らないこと」

学歴に、知性はある程度ついてくると思います。正確には、学歴は結果にすぎず、すなわち主従が逆であって、学生時代を過ごした環境に対して、知性はある程度(以上)ついてきます。懸命に学ぼうとすれば、きっとついてきます。また、懸命に学ぼうとしたときに、いい環境は手を差し伸べてくれるはずです。僕が約束します。反対に、よくない環境はよほどふんばらない限り、流されてしまうでしょう。

この(多くの大人にとっては僕の掌にあるものよりも漠然とした)経験則から、「どうせなら」「せっかくなら」いい(と世間からされている)学校に(手が届くなら)入ったほうがいいと、大人たちは諄くいうわけです。

一方、多様性は、学歴にも環境にも、付随しないでしょう。認識や理性としては、ついてきます。ただし、2019年現在において、社会階層と経験知がクロスする多様性はおそらく小学校高学年か中学生がピークで、そこから入試や入社試験という名の選別を通るごとに、多様性が目減りしていくことにげんなりすることでしょう。今回は長くなるので理由は割愛し、別の機会に譲らせてください。

「若さとは未熟で柔軟であること」

これはそうですね(笑)。ひとつ、余計なことを挟むならば、文体の若さを維持することは何らか(文章表現上/生き方)の技術によって可能かもしれないということです。僕の記事では常連の山際淳司開高健は、その執筆生涯を通じて、ある種の若さを維持することに成功しているように見えます。僕が季雲納言さんの文章と、そこから感じられるお人柄が好きなのは、その、若さに通じる何かです。季雲納言さんには、ものを書く人に必要な(不可欠といってもいい)何かがあります。

ひとことでいってしまえば、感性。

最初に文体にお目にかかって驚いたのは、古文を扱いながら、まさしく清少納言的な、あるいは孝標女的な、瑞々しさです。高校生くらいで、その感性を自覚的にとらえ、筆名に採用できるセンスというのは、これはやはり特別な何かです。

これ以上は、今回は長くなるので理由は割愛し、別の機会に。

「自分が恐らくバイセクシュアルであること」

ご自身をこうであると表現することも、決めることも、51:49くらいで世間から押されるように感じることも、何ひとつないと思います。もちろん、表現しても、決めても、是です。ただ、この問題はアイデンティティと感性の根幹に関わるので、1冊だけ紹介して、あえて宙ぶらりんにします。

私の幸福論 (ちくま文庫)

私の幸福論 (ちくま文庫)

 

本書に、「性について」という断章があります。全篇を通じて、福田は性について(セックスでもセクシュアリティでもジェンダーでもなく、かつ、それらにまたがる全体を見ながら、個として女性/男性という性アイデンティティという極めて扱いの難しい自意識について)とても柔らかく書いています。お見受けする季雲納言さんの感性にとって、福田の書くもの(内容も文体も)はおそらく大丈夫ですので、ぜひ、お読みになってみていただけたらと思います。

ちなみにですが、同性であれ異性であれ、性的に(意味は上の段落で書いたものと同じです)惹かれるのは、相手が魅力的な場合にごく自然なことと思います。漱石「こころ」の「先生」と「私」あるいは「K」と「私」の間には、しばしば、婚約者である「お嬢さん」との間以上の、擬似的性的関係が(おそらく本格の漱石研究者も否定しないでしょう)見出されます。他にも、古典でも現代作品でも、優れた作品/作家は、性の問題は何らかの形で触れるものです。

古文世界でいえば、赤染衛門が女性同性愛者だったとは思いませんが―実際に彼女は夫との関係をおしどり夫婦のはしりと評されるくらいです―彼女の歌は、ときに、ある種の同性愛的な濃密さを感じさせます。いまのことばでいう「百合のわかりみ」というものかもしれません。

「同志とは身内より信頼出来ることがあるということ」

これがまさに前段の延長で、季雲納言さんはひょっとして、パートナーシップに同志をお求めなのかもしれません(一方で、僕は季雲納言さんのお書きになっていた「弟君」との関係がとても好きです。いちファンとしてね)。

身内は、信頼がなくても身内に生まれれば身内ですね。

話は飛びますけれど、僕は別れた配偶者から「あなたの愛情は結局、身内の愛情を脱することができなかったと思う。そのことは、ものを書くことを志す人間として、おそらく最大の欠点になると思う」と、離婚する少し前から(僕はそれとは気づかなかった)警告(という形の最後の愛)を受けていました(受けていたことに、28で離婚して38くらいで気づき、愚かさを実感しました)。

身内の愛情は、現代社会ではおそらく、いつか卒業を強いられるときが来るのでしょう。うまく、できるだけ長く併存するといいのでしょうけれど…。季雲納言さんが触れていらっしゃった、お知り合いになった、幸福を感じられる方と、うまくいくことを祈っています(一青窈風に)。

「別にいい大学に行けなくても人生が終わるわけじゃない」

その通りです。また、こうもいえると思います。

人生が終わるわけじゃないけれど、いい大学に行きたいと思ったら、行ってもいい。

必勝法をひとつ授けます(笑)。2019年はもう直前ですが、もしこの先、季雲納言さんが大学に行く意味を見出されたら、センターは対策をすればいくらでも勝ち目はあります。1年あれば十分です。いつでも、声をかけてください。

*

以下が本題です。

ただ社会人になっていく上で、兄上のように色んな文章を読んだり問題に言及したりしていく知識や、その為にどんな教養を積めばいいのか、私にはわからないことだらけです。もっと文章も上手くなりたいし、「文学が趣味」と堂々と言える方々と語れるような大人になりたいんです

私の身近にそういった人は学校や塾の国語の先生方しかおらず、恩師に仇を返すわけではありませんが私が求めていることを示すにはなんだか畑というか…分野が違うような気がするのです
教えを乞うなら兄上だと思っているのですが、どう思われますか?

まず、拙いながら、僕は読書を重ねていてよかったなとつくづく思いました。ありがとうね。

しかしながら、僕は知識も教養もないし、文学が趣味といえるほどの何かでもないので、2点だけ。文章はご覧のとおり、一向にものになりません。

けれど、それでももし、季雲納言さんが文学を志されるのなら、

  • 暮らしの支え(経済的な意味での)
  • 並々ならぬ決意

どちらも、必要になってくるでしょうということはいえます。まず前者については、その確実な道のりを、多くの人は学歴に求めます(それでも足りないくらいです)。残念ながら、いい大学に入って、出て、いい会社に勤めて、その余ったお金でブンガクをやる。もしくは、高貴な血筋に生まれる、縁組をする、それが早道です。

後者は、文系受難がおそらくこれからますます加速するであろう時代に、僕もどうしていいかわからない。とはいえ、ブンガクなるものは、その苦しみの中で、残されたたった一人に旗印を立てる営みに、そしてそれを遠巻きに見る/たまたま見かけた人にとっての何かの救いには、なるだろうとも思います(これまでも、きっとそうだったしね)。

*

以上、まるで、答えになっていないですね…。

*

ずっと上で漱石の「こころ」に言及しました。今回、季雲納言さんにお声かけをいただき、僕が最初に想起し、これは失礼にならないといいのですが、苦笑交じりに、ぱらぱらと読み返したのが「こころ」の先生のくだりと、太宰の「トカトントン」です。登場人物のお二人とも、似たような口ぶりをしている。まあ、もっとも、僕は何だかんだで太く生き延びるほうだと思いますが、師はよくよくお選びになるといいでしょう。

*

ご質問があれば何なりと。本当に、感謝しています。ありがとう。

*

(公開直後の追伸)

あの…黄金頭さんのことご存じでしょうか、ぜひお読みになってみてください。

goldhead.hatenablog.com

(彼こそは、平成後期から次の時代を代表する書き手です。好き好きや感じ方は、あると思うけれど…)