illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

おれのくーちゃん

ベッドの上に、くーちゃんが気に入って、よく背を伸ばして横になっている(横になることを覚えた)ので、段ボールが2枚、敷いてある。それは横になったときの僕の脚の置かれる場所に位置するのだが、僕が寝ているとくーちゃんが(いつの間にか)やってきて寝るので、できるだけ、そこに脚をかけないように、心持ち、腰をよじって寝る。

くーちゃんはこちらを見ない。気配でわかるので、察せれないように、静かに頭を起こして様子を伺う。後ろ頭が見えたり、暗がりの中、こちらをじっと見ているアーモンドの目と視線が合ったりする。脚を動かすとくーちゃんをびっくりさせてしまうから、動かさない。

くーちゃんは、下僕のふくらはぎに背が触れるか触れないか、ほんの少しだけ触れる間合いで、夜半のしばし、何かを確かめ、気づくと別の場所に移っている。それなら絶えず静かなお嬢様かといえば、必ずしもそんなこともなく、夕の4時と朝の4時に、にゃあと鳴いて、ご飯のないことを訴える。

くーちゃんの、ご飯を確かめる様を見ると、下僕も日夜、様子を確かめられているのだと、感慨深い。触れ合いではなく、触れるか触れないかの、触れたとしても短い面積と時間の積分が、下僕を政治から日常へと、引き離し、戻してくれる。下僕のふくらはぎがそれを詩歌と呼んだとして、世界を変えるほどの、差し障りはないだろう。