最近、五十肩です。肩が凝ってしゃあない、というほどではないにせよ、あれ、というタイミングで凝りを自覚します。今日はキッチンに立って(手抜き)蒸し野菜ソース焼きそばの下ごしらえに、残り物の白菜と常備の玉ねぎ、しめじに包丁を当てていたとき。
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あれ、っと肩が張っているのに気づき、これは張りというか凝りなのだなあと。張りと凝りの違いは諄く語釈しませんが、煮凝りのイメージが凝りの語感をよく伝えます。あるいは凝り性。張り性とはいわない。ひとつところに(血行が)留まって、(張らずとも)動かないさまです。前にも書いたのを覚えていますが、おそらく「もっこり」(盛り+凝り)の凝りです。あれは血が集まってそこから動かず盛り上がる(張るとはいいますまい男性諸君)ことで相違ないと思います。
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お袋が、51の春にがんで世を去るんですが、40過ぎた辺り(1989)からかな、あるいはその前35くらい(1984)から、僕に肩を叩かせるんです。かなりうまいらしいんです。「子宮に響く」とかいってね。わが倅を相手に褒めることばとして適切とは思いませんが、お袋はそういうところがあって、普段の作法や言葉遣いにはえらく厳しいんですが、ひょんなところでずばっとクロスファイアの速球を遠慮なしに投げ込むところがありました。
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それはさておき、お袋の肩の凝る原因はわりかし明確で、夕餉の後、居間の座椅子で居眠りをする――おそらく彼女にとって最大の憩いとしていた――習慣があったからです。誰の目にも明らかだった。でもやめようとしない。食器洗いが済んで、お茶を出して、自分も残りのみかんや茶菓子をひとつ、ふたつ。歌番組か中村主水かふぞろいの林檎たちか何かを見て、うつらうつら、こっくりこっくり、し出す。
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ばあさん(お袋の生みの親です。お袋は長女、親父が婿養子 575)はそれを見咎めて、というか、まあ、そういうコミュニケーションとして「みっともない」「早く(横になって)休めばいいのに」と軽くいなすわけですけど、ばあさんのいいつけのほとんどには背くことのなかったお袋が、居間での居眠りは頑として(変な表現だ)終生、守り切ったところがあります。
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先刻、そんなことを頭に過らせながら、包丁を置いて、首を振り返らせて、PCチェアの上で落ち着くくーちゃんと目が合って、「くーちゃん、愛してるよ」「あ、いててて」なんてなったわけです。僕がよく居眠りをする、チェアの上は、席を立つときにはブランケットを2つか4つに折って乗せてあって、それはもちろん、くーちゃんが少しでもふかふかになるように、寒くないように。
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僕がくーちゃんを大切にするように、お袋は、凝る肩をなだめながら、ブランケットのようなものを、僕や弟たちに、かけてくれていたのかなと、20年30年を過ぎて、ふと思います。生きていれば、あと数日で、72の年女になります。
(この写真は、ブランケットを掛けていないとき、2016年末のものです)