まずは、枕に英辞郎1448から。
hot stove league
〈俗〉《野球》ストーブリーグ,野球談義をする人たち,【語源】野球の試合がなくなる冬季に,野球ファンたちがストーブを囲んで,選手の移籍・契約更改・引退などの話をする様子から
ストーブリーグということばがあります。
こと日本の、80年過ぎ以降からは、(低成長に転じたとはいえ)高度経済成長、爛熟の総仕上げといった観で、このことばは(とりわけ顕著になったのは落合博満の頃からかな)《銭闘》といった品のない熟語とセットで想起されるようにもなりました。
しかし、元は違うと玉木正之か常盤新平かの説で読んだことがあります。上の、英辞郎の訳解にも、その匂いが感じられるので、引いてみた次第です。
「野球の試合がなくなる冬季に」これに続く趣が、少々、違う。
(1)もともとの意味は、オフ・シーズンにファンがストーブを囲み、ペナントレースを振り返って、回顧談にふけることをいう。
スポーツライターはエンターテイナーでなければならない、とジョン・ラードナーというスポーツライターは書いていた。ラードナーは野球小説を書いたリング・ラードナーの長男である。1960年に亡くなるまでスポーツや映画のことも書いてきた。彼もまた活字によってスポーツを面白くしたジャーナリストである。
冬には、スポーツ紙の選手の結婚や契約更改の記事のかわりに、楽しいスポーツ物語を読みたい。そうして、春を待ちたい。(略)いまは毎日、コタツに入って居眠りばかりしているが、実は、私は春をひたすら待っているのである。また、暑い夏を待っているのである。
常盤新平「ベースボール・グラフィティ」講談社文庫P.65-66
この、ストーブリーガー究極の姿は、おそらく、ヘミングウェイ「老人の海」で、ヘミングウェイと老人が、ディマジオを想起するシーンでしょう。あまりに有名なその箇所は、あえて引きません。代えて、
「彼が守備位置のセンターで打球を追っているのを見ると、その優雅さに息をのむような気持にさせられる。すこしも急いでいるように見えないのに、素晴らしいスピードで球に追いついている」(殿堂入りの名門外野手モンティ・アービン)のだった。
ハンサムで内気で長身で、そのうえ名門チームの中心打者、身だしなみは一分の隙もない。そんなヒーローの条件を完璧に備えていた。
伊東一雄/馬立勝「野球は言葉のスポーツ」中公文庫P.20
プロフェッショナルが描くスポーツというのは、おそらく、不在(いまここにないもの。次の瞬間にはあり得るかもしれないもの)によって際立つ、想像を惹起する力にこそ生命があるのではないかと思います。海老沢泰久は、長島(彼は半ば依怙地に、ヤマ偏なしで表記します)茂雄の魅力の本質を、「僕たちが期待する、次の瞬間に対するイマジネーションを、あれほどまでに完璧に満たしてくれた力」(意訳)といったように表しています。
しかし、これはモダニズムの延長にある。私たちは、待ち望む、あるいは不在の寂しさをそのままに場に表白するだけで、期待していることをむやみに感じさせない、無限遠点に歩み寄るかのような、新しい(温故知新)ファン心理を読んで、のどごしを味わう機会、僥倖を与えられています。
この、白さは何なのだろう。ポストモダンだ。あるいはポストモダン以降。
虫明亜呂無か、寺山修司かと思いました。だがそうではないんですね(ちなみに、はてなブロガーの中で、虫明亜呂無を読みこなしている量は、黄金頭さんと僕で馬連鉄板のはず)。むしろ、と少し頭を巡らせて思い当たった。
庄野潤三がスポーツライターに転身したら、黄金頭さんの今回のエントリーのような筆致になるのではないか。あるいは、なぜ、このまま日刊ゲンダイのスポーツ欄に転載されないのだろうか、など。
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屋上屋を架すことはしたくない。だから引用はしないが、黄金頭さんの今回の断章は、とりわけ結びが効いている。この結びがあるとないとでは雲泥の差が出る。そのように、彼の才能には、掌編小説家(エンターテイナー)としてのものに加え、スポーツを巧みに描き、私たちを楽しませてくれるエッセイストという側面がある。悲しくて、困っているのに、楽しいのである。
角度を変えていえば、それはジャーナリストとしての本質的な美質と呼んで差し支えないものだろう。いまではなぜか忘れられ、別の意味が全面に出ているが、journalは日記という意味だった。関内関外は、だから何が書かれようと、日記、日誌、日乗である。そのことが、戦時下の私たちを支えてくれている。
常盤新平の一節を再度、引いておきたい。
彼もまた活字によってスポーツを面白くしたジャーナリストである。
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終息したら、春のオープン戦にお誘いして、「黄金頭コロナ日記」の企画を切り出す夢を思い描いている。