illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

津田沼の団地はどういうものだったかしら

 いろいろ書きたいことはあるのだが、岡崎京子を手に入れた(正確には10数年振りに取り戻してしまった)ため、マーマレードジャムを作っている。

 玉木正之はたまに妙なことをいうが同じくらいいいことを書き記していて、そのひとつに「塁間にランナーを追い詰める野蛮な喜びを忘れた守備側」「ボールを戻せ/ランナー戻れ」というときに『ビャァァァック(backである)』という声が自然に出てこない草野球少年」を俺は信じないというのがある。近代化の過程で野球をはじめいくつかのスポーツは「やる」ものから「見る/応援する」ものに変質してしまった。本来はそういうものではなかろうと玉木のおっさんは説く。正しい。

 

スポ-ツとは何か (講談社現代新書)

スポ-ツとは何か (講談社現代新書)

 

 

 年末年始に竹富と小浜に足を運んでそこで取り戻したのは暮らす、感覚だった。その土地で暮らし(もちろん都市生活者には計り知れない苦しみと慈しみがある)、暮らしを大切にし、風と光と波とともに呼吸をする。竹富とは俺にとってそういう場所だ。

 戻ってきた俺は冷蔵庫を(ひとりの侘び暮らしにしては)大型のものに新調し、せめて自分が口にするものはその成分を理解/把握したものにしようと半生で何度目かの「あがき」を始めた。

 

 

 味噌は順調にぷくぷく音を立てている。白菜は塩味が効きすぎた。パン生地を作り、トマトを湯むきし、イワシの腸を抜き、ジャガイモを水に浸し、そうこうしているうちに世間ではいろんなものにいろんなものが混入して阿鼻叫喚の態である。「作る」ことと「食べる」ことが分離する暮らしをしているからそうなるのだ。むろん自戒である。

 岡崎京子といえば「ヘルタースケルター」を想起するような大人にはなりたくないと思っていたらならなくて済んだ。大塚英志ありがとう。岡崎の傑作は一般には「リバーズ・エッジ」なのだろうが、「ジオラマボーイ・パノラマガール」「恋とはどういうものかしら?」のほうが俺の好みに合う。「リバーズ・エッジ」はエグいのである。「ジオラマボーイ・パノラマガール」の津田沼春子ちゃんの軽さのほうが俺には心地いい。神奈川君のメガネとテクノぽいカットは80年代(後半)の表象である。

 

ジオラマボーイ☆パノラマガール 新装版

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ジオラマボーイ パノラマガール (Mag comics)

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 俺は高校生のときに赤いほうを読んだんじゃなかったかな。

 で、何の話だっけ。そう、マーマレードの話だ。都市の辺境でマーマレードを作っていると、15年遅れで岡崎京子の尻尾を踏むことができた気になれる。村上春樹ならこの後、恋人か配偶者を伴ってピザ屋を襲撃するのだろう。岡崎は昭和から平成に移り変わろうとする俺たちの時代を(誤解を恐れずに踏み込むが)あたかも向田邦子が戦前と戦後の間でやってのけたように架橋した。

 トウキョウに憧れながら郊外住宅に暮らし乾くハルコの影を、四半世紀が過ぎて俺はようやく射程に入れたことになる。岡崎京子おそるべし。

 

恋とはどういうものかしら? (Mag comics)

恋とはどういうものかしら? (Mag comics)