illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

北条裕子「美しい顔」少し丁寧読(7)

前回に引き続き北条裕子「美しい顔」を少しだけ丁寧に読んでいきます。

dk4130523.hatenablog.com

人間の声、人の体が発する音などというものが意味をもつ世界ではなかった。大地が、剝げ、めくれ、腹の底を突き破るような唸り声をあげて躍り来るのを、自分もその中にのみ込まれぬよう、しがみついて祈るだけだ。祈りがあるだけだ。怒り狂った何かが人間の生気を奪いながら迫り来るのを、ただ私たちだけはどうか見逃してくれと祈るだけだ。

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180703_gunzo.pdf

ここ、幾重かの意味で間違いです。津波が押し寄せてくる場面なんですけれども。

まず、実際には、それでも、意味のある言葉を発して、何とか助けよう、助かろうとしていた人が一定数(以上)いました。一例として―別例ですが―今般の西日本の水害を見ても明らかです。

もうひとつは、「祈り」という言葉の遣い方です。津波が押し寄せてくるあの瞬間に祈るという感覚は、おかしい。私は揺れ(震度6弱)は監査に入っていた東京資本の地方工場の、2F会議室の作業机の下で頭を両手で覆い抱えながら、長い長い揺れを堪えていましたが、「これは死ぬな」という予感に、ひたすら左右に振られながら、身震いするばかりでした。そのときに祈りと近接するかもしれない、けれど決定的に異なることを私は行っていました。それは「神頼み」でした。

津波は、帰宅した後、翌(々)朝にかけてにTVで見ていました。為す術もなく、呆然と口を開けておりました。

岩波古語辞典「祈り」(P.125)に、次のようにあります。

《イはイミ(斎・忌)・イクシ(斎串)などのイと同じく、神聖なものの意。ノリはノリ(法)・ノリ(告)などと同根か。みだりに口にすべきでない言葉を口に出す意》

これは辞書の編集主幹、大野晋先生の感じ方でほぼ間違いあるまいと思います。

以上を(さりげなく、しかし極めて重要)踏まえて、

(1)神や仏の名を呼び、幸福を求める。[引用者、中略]

(2)《転じて》呪う。呪詛する。[引用者、後略]

とあります。現代語にもそのまま息づく感覚ではありませんか。大地の異変を目の当たりにし、人々(それは取りも直さず311のときの私達)は、その瞬間にはただ慌てふためき、無力なままだったかと思います。祈るのは、落ち着いた後に、《次はどうかありませんように》と地鎮を行うときではないでしょうか。それを「見逃してくれと祈る」(北条さん)は、異変時に直結してしまう。

「美しい顔」の引用に戻ります。重ねて、想像力ではやはり太刀打ち能わざると思うほかにない描写に、道を遮られます。

何をしてんだよッ!早くあがれ」男たちが怒鳴る。「あがってーェ、お願いぃ」女たちが叫ぶ。「あーあーッあーあーッ」老婆が言葉にならない声でわめく。女子が笛のようなピーっという甲高い声で泣く。うるさい!だまれ!もうこの建物のすぐ真下まで来ているというのに坂道を上がってこない人がある。「ばかやろう!こっちだ!こっちへ来い!」人々の声は下の人には聞こえない。「あがって!こっちよ!こっちぃ!」「死にたいのか!上がれって言ってんだよおッ!」高台にいる人々は口々に叫ぶ。ごごごごと地響きを立てて波は来る。「ちくしょう!」フェンスを殴りつける男。

これも、違うなあ。(1)東北の人の言葉遣いではない。(2)なかったとはいいませんが、もう少し、為す術のない落胆、流されゆく諦め、ため息、落涙、ああ(あはれ / 哀れ)という呟き、漏れ、嘆き、それが、具体的な「こっちだ」「あがって」(北条さん)といった氷上の言葉のより深い水面下で、より―圧倒的に―大きな錐や直方体を成していた感覚が、私には強い。(3)「うるさい!だまれ!」これなど、ごく控えめに申し上げて、あの時の感じ方として、(よしんば表現効果、造形の一部だとしても)(書き残してしまう/立ち止まってみないのは)(想像者/表現者として)ちょっといただけない。

そして、少し置いて、

私たちは山の斜面に移動していた。第二波がくるぞ、ここも駄目だ、もっと上へ上がれと言われて私たちはここまで這うようにしてあがってきたのであった。さっきまで「逃げろ」とか「高台にあがれ」とか「あーあー」とか叫んでいた人たちはもう静かになって誰も大きな声をあげる者はいなくなっていた。

この箇所(「もう静かになって」)は、何かを掴んでいる気がする。けれど、すぐ後に続く、

そのとき私には自分が生きているのかはっきりと断定できないような、体と脳みそが宙に浮かんでしまったようなそんな感覚がしばらく続いていた。

この自意識と過剰な表現が、せっかく手にしかけた《静けさ》の感覚から、読者を遠のかせてしまいます。北条さんあるいは「私」は、先の岩波古語辞典の表現を借りれば、自分は祈っている、自分にあるのは祈りだけだと仰りながら、《みだりに口にすべきでない言葉を口に出す》ことによって、311を、被災地を、被災者を、呪詛しています。

していない、そのつもりはない/なかったとは、仰るまいな。

呪詛の意図の有無は問題ではありません。《みだりに口にすべきでない言葉を口に出す》こと、それ自体の咎のことを、私の中の折口信夫が申し上げております。また、私は北条さんの作意にまんまとはまっているとも思わない。口にすべきでない言葉を書く理由が何なのか、作者は作中で明らかにしているでしょうか。

(以上を記して、私は、北条裕子「美しい顔」の、何とも読むに耐えない、嫌な感じ、自分なりの理由に、ようやくある程度はっきりと触れた気がしました。)

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今回、以上です。また今日夜か明日朝、続きを行います。