illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

北条裕子「美しい顔」少し丁寧読(6)

今回からは少し丁寧に読んでいきます。そう宣言したので。

dk4130523.hatenablog.com

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次の箇所は本作品「美しい顔」での北条さんの文体、特に文末処理の特徴がよくもわるくも表れたところです。

少しばかり世間知らずのように無邪気に他愛もないおしゃべりをしていればどんな場合でも事をうまく運ばせることになる。ある程度のことはうまくいく。ある程度の善意をもってもらえる。ある程度の話は解決される。自分が何をしゃべればいいか、どんな表情をしてどんなふうに振る舞っていれば周りの人が一番喜んでくれるのか、私はうっすらとわかっていたように思う。それでだいたいのことがうまくいっていたのだ。しかし今、この自分を知らない他人のように思う。はじめて出会う女の子のように思う。私はこの女の子がかなり苦手だった。この人は強烈だった。ねじけて性格の悪いこの女の子と私はうまくやっていけそうにないのであった。こんな女の子になど誰も関わりたくないだろうと思った。目に映るものすべてが憎いと両目をカッと見開いて目前を通るありとあらゆるものを睨みつける女の子になど誰も目もくれないだろうと思った。

http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180703_gunzo.pdf

内容は大したことは書いてありません。先日のコメントで御本人もある程度お認めになったように、もはや明らかだと思います。そのことはどうでもいいのです。文末だけ追ってください。

  • 「なる」(中)→「いく」(短)→「もらえる」(短)→「解決される」(短)→「思う」(長)

カッコ内は文の大まかな長さです。続いて:

  • 「のだ」(短)→「思う」(中)→「思う」(短)→「だった」(短)→「だった」(短)→「あった」(中)→「思った」(短)→「思った」(長)

t音ならt音、rならrの同系統の韻を踏んだ短い文を重ねることでリズムを持たせ、ある程度まで走って飽きてくると、長い文で締めにかかる。いやないいかたですが、これなら、いくらでも―といっては語弊がありますが―一人称の「思った」文体の私小説は量産が可能です。また、これも、まあ実際そうなので書いてしまいますが、文章を書き慣れていない(≒なまじっか書き慣れた)人が陥りがちな《タメのなさ》です。吉田健一丸谷才一、あるいは飛躍を許していただけるのでしたら、樋口一葉紫式部の対極にある。

だれがいいだしたか知りませんが(本多勝一「日本語の作文技術」、あるいは志賀直哉あたりかな)何かこう、短い、簡潔な文をよしとする風潮があります。私は(いまさら/N番煎じやもしれませんが)異を唱えたい。短い文を筋よく書けたなら、むしろ味は長めの文にある。大野晋先生も「日本語練習帳」で《センテンスの骨格》といういいかたで、そう仰っています。

北条さんの文体、リズムは、ざっくり申せば平板です。ある種の疾走感らしきものは、確かにあります。

私たちはただそれを見ていた。そこにいる人々はあまりにもシンプルで普通の言葉を発していた。あーあー。どうしよう。すごい。いやぁ。うわあ、うわあ。人々の口から出る言葉はあまりにも拙く、ちっとも目の前の光景を伝えていなかった。私たちははっきりと老人が波に足をとられて引きずりこまれるのを見ていたし人を閉じ込めたまま車が波の上を木材の渦といっしょにクルクルとまわっているのを見ているというのに本当に単純な言葉しか発していなかったのだ。くるよくるよ、あーきたよ、きちゃったよ、あれも動くよ、ほら動いた、あーあれも動いちゃった、もうどうしょーもない、だめだ、だめだめ全部だめ。渋滞していた車は列の形を保ったままそっくり浮き上がりゆっくりと回転しながら列を崩して散っていく。

ここなども、恰好の例ではありませんか。

やっぱり、文体ひとつをとっても、芥川賞候補に名を連ねる/連ねさせるには、時期尚早でしょう。群像新人賞の二次選考にぎりぎりかかるかどうかくらいの味です。これでは、黙しがちな東北人の内面、まして被災者の気持ちは、掘り下げられません。コツコツってちょっと叩いて、だーって引いてまとめちゃうんだもん。何度も何度も叩かないと。ねちっこく、粘り強く耳を傾けないと(北条さんが参照されたノンフィクションの仕事がそれをなさったように)。それを行うことなしに、北条さんが目指したつもりと仰る「人間の理解」には到達し得ないと私は考えます。加えて想像力のうちにご自身が紡いだ言葉を自ら「人々の口から出る言葉はあまりにも拙く」「本当に単純な言葉」と切り捨てるなんて作者は一体何がしたいのでしょうか。

あれ? 辛辣になってしまった。すみません(泣)。

*

追記:

上で私は「量産可能」という表現を用いました。北条さんらしい、北条さんにしかできない「つっかえる」味が味として練れてきたときに、量産不能の文体が誕生するように思います。吉行淳之介の(一見流暢を装って)こきこきっとした、不器用な顔とでもいったら伝わるかな。

芥川賞への道を目指すのは、それからでもよろしいでしょう。

*

【PR】追々記:

それで思い出した。ここ、うまくない? 短から長を連ねる感じが(笑)。

秋の日がやってきた。

訃報が伝えられると、冒険者たちはわれさきにと酒場に集った。

かれらは、おのおの、ひとしきりメッセージボードを眺め、嘘やわるい冗談ではないことを確かめると、大切な友だちを失ったときにしばしばそうするように、ほかにどうしようもないといった表情を湛えて、肩を落としながら帰途についた。

道すがら、銘々の流義に則り、東に住む者は西の空に、西に住む者は東の空に向かって淡い祈りを捧げている。その日ばかりは、酒や煙草を絶った人もいると聞いた。

やがて宵が立ち込め、それやこれやを押し流してくれる夜の帳が下り、酒場と辺り一面を覆い尽くす、その中を、冒険者たちはひとり、またひとりと踊りおえていった。後ろを振り返り振り返りし、ことばにならないつぶやきを夜に溶かしながら、コンクリートの壁の合間に煙が吸い込まれていったのは、その日、ずいぶん遅くなってからのことだった。

船橋海神「セカンド・オピニオン」

おれ、これ書くのに、呪文を唱えながら、船橋の夜を幾度彷徨徘徊したことか。よよん君、ごめんな。