昨今、「ストーリー」「文章」の現状や未来を憂う/心配する記事を続けざまに見かける機会がありました。
大丈夫です。なくなりません。なくなる/消えていくとしたら、うまく書けない書き手です。気にすべきは、ストーリーや文章ではなく、自分の技法の足りなさ、開拓の余地です。そのように、まだそこに余地があるとすれば、それは現状から未来に向けての可能性です。
気持ちはわからないではありません。ウェブに誰もが日記やストーリーや文章を載せられる時代になりました。全体量、それも玉石混交の「石」がこれだけ量産されると、「玉」の比率が下がっていく。同時に、これまでの常識的な感覚では評価されるとは到底思えなかった「石」に毛が生えたようなのでお金になっている、ように見える。
大丈夫です。なっていません。石は石のままです。お金にならずにじっとしている石がほとんどです。
反対のこともいえます。じっとしている「玉」もまた、思いの外に多い。おふたりだけ引きます。例えば、ご存じ黄金頭さん。
文章から対価を得る(その現世的対価対才能の比重において)という意味では圧倒的に不遇の方です。けれど、私は知っています。いまがまだつらいだけで、黄金頭さんにはきっと光が当たるときが来る。近現代の文人にも、例えば森敦のように60歳を過ぎてから(もちろんご存じのように彼は20代で一瞬「ちらりん」と才能を光らせて隠遁するわけですが)芥川賞を得た方がいます。
もうひとりは、たんぽぽさんです。次の2つのブログを見(比べ)て(みて)ください。
明と暗、光と影、躁と鬱が、見事なコントラストを描いている。エッセイだけでなく歌(短歌)もなさる(むしろ順序としては逆かな?)。その短歌がまた実にいい。ひとことふたこと、別チャネルでお話ししましたが、とてもお優しい方です。私は短歌というチャネルを通じてたんぽぽさんの優しさに触れることができた。私に若干の短歌の素養がなかったとしたら、テキストを通じたお声を聞く機会もなかったでしょう。
このことは、黄金頭さんについてもいえます。田村隆一を、石牟礼道子を読んでおいてほんとうによかった。
ついでにいえば、「ストーリー」も「文章」も、畢竟は型です。いまこうして書いているひとつひとつの文も、型です。オリジナルの文などというものは(ということは発想/思考様式も)ほぼ、ありません。このように書くと、それこそ型が飽和して未来がないようにお感じになるかもしれません。
そうではないのです。同じ芝浜でも、三木助と志ん生と志ん朝とでは味に違いがある。同じ恋の歌でも、俵万智と和泉式部とでは違う。優劣ではなく、よいほうの味の違いです。そこから、学び取ることはいくらだってある。
太古から、そんなに、人のやること考えることは、変わらない。呉智英がたまにbotでつぶやいています。
笑いの基本型は五百年や千年では変わらないということである。私は学生時代に支那古典笑話や江戸笑話を読みあさったことがあるが、何千という笑話も、二十か三十、多くても五十ほどの類型に分類できることに気づいた。あとはその応用型なのだ。
— 呉智英bot (@gotieibot) 2018年1月12日
だったら書かないか、書かなくていいかというと、やっぱり書いてしまう。話して、笑ってしまうわけです。笑いであれ、悲しみであれ、同じことです。