あぶないところだった。
昔から、そそっかしいことで随分としくじってきたが、このたびは、自分のそそっかしさに救われた。
台北空港で、高雄行の搭乗手続きをしたところで、ホテルにたいへんな忘れ物をしたことに気がついたのだ。
一行四人、ホテルにとんで戻ったら、ロビーのあたりがざわついている。通訳のTさんを介してきいた話に、一行はヘタヘタと床に坐りこんでしまった。
乗るはずだった飛行機が空中爆発し、墜落したというのである。
映画「旅愁」が、現実におきたのだ。
乗客名簿にのっているから、日本では大騒ぎだろう。本当に心配してくれている方には申しわけないが、もうしばらくこのまま姿を表さないでいようか、などとけしからぬことを考えている……
向田邦子連載第15回「旅愁」―山藤章二『山藤章二のブラック=アングル’81』新潮文庫所収P.81
『ブラック=アングル』には、マッド・アマノ名人と同じように説明が必要な時代になったのだろうか。信じたくない。よって説明しない。
山藤の同級生、同じ昭和12年生まれの横澤彪が新潮文庫版『ブラック=アングル』の解説を担当している。実に楽しく、そして少し寂しそうである。たとえば、80年代初頭のMANZAIブームに触れながら『ブラック=アングル’82』の解説をしている箇所。
いまのヤングは、ものごとを感覚的にとらまえる。好きか嫌いかとか面白いか面白くないかが価値判断の基準になっているから、ひと昔前のように、よいかわるいかとか、正しいか正しくないかとか、うまいかへたかといった頭でっかちのモノサシは、もはや通用しない。
横澤彪による「解説」『山藤章二のブラック=アングル’82』新潮文庫所収P.120
あの「オレたちひょうきん族」のプロデューサーによる言である。
僕はずっと誤解していたかもしれない。横澤さんはここで、実は「よいかわるいかとか、正しいか正しくないかとか、うまいかへたか」のモノサシで自分は育ったのだとさりげなく表明しているのだ。信じられない。
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そうした古典的な基準の知と笑いの世界で粋を発揮しつづける山藤さんに、在りし日の―バリバリのころの―横澤さんは、『ブラック=アングル』シリーズを通じて解説という形でエールを送り続けているように読める。そのようにしか読めない。くだくだしい引用は粋に触るので3箇所だけ。「知らなきゃ笑えないぞ…(中略)…という精神ほどやっかいなものもない」「粋とか洒落とかいうのも同じだ」「…言ったら最後、野暮天になってしまう。粋をつらぬくためには歯ぎしりしてじっと相手が気づいてくれるの待つしかないのだ。山藤さんの粋の世界にも同じような悩みがあるに違いない」
すごい。
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ブラック氏(1981年8月末当時44歳)が向田さんの回のイラストの余白で男泣きに泣いている。「嗚呼向田邦子さん 悲報が何かの間違いでありますように そして来週の週刊誌にこんなエッセイが載りますように」
いまでも、僕も同じ気持ちでいる。
そしてほとんどだれもいなくなった/向田邦子に魅入られた文士たちの弁 - illegal function call in 1980s