illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

「復活の日」準備日記#0015 どうしたら文章がうまくなるのか

どうしたら文章がうまくなるのか。文体を得られるのか。

ひとつの答えがあります。私もこのブログで、以前にも触れたことがあるかと思います。海老沢泰久さんのファン、日本で一番の海老沢泰久読みヒサさんのサイトです(20馬身差の2着は僕です)。ここに、プロセスとレコードが明確に記されています。

http://www.asahi-net.or.jp/~hz7h-oohr/Profile.html#20100813

ここから、まず2010年8月13日の日録を読んでみてください。それから試しにページの先頭に戻って、お好みでサイト内のリンクに飛んだり、時系列を目で追ったりしてみてください。

いちどお会いしたいなあ。メールでのやり取りはしたことがあるんだけど。

ヒサさん、私の敬愛する同時代の書き手ふたりのひとりです。

「復活の日」準備日記#0014 渡(わたりではなく、わた)さんの件

やはり、この箇所を何度でも引かせてほしい。海老沢泰久「監督」屈指の名場面。アフィリエイトに結びつかないほうのリンクを貼るので、どうかご容赦願いたい。

監督 (1979年)

監督 (1979年)

 

試合終了後、広岡は岡田と食事に行った。

「ここの鴨のローストはうまいんだ。バターを塗って丸焼きにしただけのものだがね」

なるほど岡田のいうとおりだった。鴨の味がそのまま生きていて、ためいきが出るほどうまかった。広岡はその味を楽しみながらワインをのみ、それからコップの水をすこしのんだ。

「うまい料理を食べているときにこんな話をするのはいやなんですが――」

彼はいった。「どういうふうにしたんです? 高柳を締めあげたんですか」

「ああ、そうだ」

岡田は鴨を口に運びながら、顔色ひとつ変えずに答えた。「どうしても監督になりたかったらしい」

海老沢泰久『監督』(文春文庫)P.347

めんどくさいのでいろんなことは書かない。高柳とはとか、この話は何であるかとか。

*

それらのことは、あらかじめ飲み込んでおいてほしいのである。

*

主眼は、ここで一呼吸をおいて、岡田三郎は広岡達朗の気持ちをどうしても確かめたくなる、その心持ちのことだ。

三者的に見れば、そして広岡達朗という人物のあり方を見れば、広岡の気持ちはとうに固まっていたことは(初めから)わかっている。それでも岡田は広岡の気持ちを確かめたい。

「わたしはジャイアンツを追われた人間ですよ。どうしてそんなやつに監督の話がくるんですか。そんなことはありえません。ジャイアンツというのはそういう球団です」

「万が一、話があったとしたらどうする?」

「どうしたんです、いったい」

「きみをどこへもやりたくないからだよ」

「そうですか。万が一、話があったら――、きっとどうすべきか考えるでしょう。そして――」

「どうする?」

広岡は苦笑した。

「厭だ、といいますね」

岡田の顔に笑いが広がり、それから彼はボーイを呼んで新しいワインをはこばせた。そしてふたつのグラスになみなみと注いだ。

「乾杯しよう」

と彼はいった。「きみをクビにしてくれたジャイアンツに!」

前掲書P.352-353

*

私はある人物を、どうしても、何があっても箕輪厚介(伏せ字)の側にやりたくない。

「万が一、話があったとしたらどうする?」

問い詰めたい。言質を引き出したい。伏せ字の側には金がある(らしい)。万が一、そう、「万が一、話があったら――」その人物、彼が、転ぶような人ではないことは、その書くものから明らかだ。顕現である。信じないのではない。私の目に狂いはない。

それでも、

「どうする?」

どうもしないのはわかっている。そちらに行ったら才能を使い潰されて枯れて倒れる、そのことも私はわかっているし、その人物、彼も、冷静に直観しているだろう。

でも、岡田三郎は切ないのだ。ここでの切は、大切の切である。

「きみをどこへもやりたくないからだよ」

「そうですか。万が一、話があったら――、きっとどうすべきか考えるでしょう。そして――」

岡田=津川雅彦の目を大きく剥く、見開く気持ちが、この数日間ほど痛切に感じられたことはなかった。私もかつて一時期、いわゆる編集の仕事に携わっていたことがある。稀有の才能、それも生涯この1回しかないと思えた出会いは、どこへもやりたくない。

編集者なりディレクターなりプロデューサーなりの価値の第一歩は、そこにある。本来、そこにしかない。そう、叩き込まれた。渡さん。

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「復活の日」準備日記#0012 愛すべき人がいて

愛すべき人というのは、

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これらの平成前中期を代表する男女の歌謡の放つ、切迫感を伴った、おそらくは一夫一婦制を前提し、その手前にある何らかの「向き合う」重さに耐える運命的な人、という意味では、もともとありません。ありませんでした。

*

「彼は、愛すべき人物だよ」

といったときの、世間やその常識からは少し外れてしまったところはあるけれど、人柄に憎めなさ、可笑しみ、があることを含意する、にこやかな用法が、昭和以前に見られた本来の姿であったはずです。

黄金頭さんの筆致の見事さについては、ずいぶん行き渡ってきた観があります。これまで、30年に及ぶ冬の時代が、その黄金の右、左の頭を、あの手この手で押さえつけてきました。

しかしながら、東海林さだおを原風景にもつ彼の巧まざるユーモアは、私たちがもっともっと貢物をし、お強請り(ねだり)をすることによって、引き出し、語り継ぐべき部分であるか(や)に思われます。

「復活の日」準備日記#0011 ごんぎつねの語り手はだれか問題

全国数千万のごんぎつね研究者のみなさまおはようございます。

私はエウレカです。すごい発見をしました。鳥ランドのほうであらかたしゃべったのですが、こちらでも書かずにいられない。でも引用と最小限の補足にとどめます。

 「引用と最小限の補足にとどめます」と書いたのは、魔法にかけられたと思ってこの視点で通しで読んでみてほしいから。破綻がない。もちろん、南吉は《わたし》=ヒトの語り手である立場を無意識に選んだとは思います。でもだから《わたし》=ヒトと決まったわけじゃない。

「ごんぎつね」は、きつね世界に伝わる尊い伝承です。ほんとに。破綻がないから。ほかに読みようがない。

ごんぎつね (日本の童話名作選)

ごんぎつね (日本の童話名作選)

  • 作者:南吉, 新美
  • 発売日: 1986/10/01
  • メディア: ハードカバー
 

 「手ぶくろを買いに」も、同じ軌にある、きつね世界の伝承です。こちらは、疑う人はより少ないよね。

手ぶくろを買いに (日本の童話名作選)

手ぶくろを買いに (日本の童話名作選)

  • 作者:新美 南吉
  • 発売日: 1988/03/01
  • メディア: 大型本
 
 エウレカ追記

この命名は、明らかに作者の意図です。

「復活の日」準備日記#0010 だめにんげnプロフェッショナルの行方

男性役割、いや、競争社会や上昇志向から「降りる」ことの難しさ - シロクマの屑籠

2020年現在においてなお、シロクマのいうように、研修医がこぞって(揃って)コミュニケーション強者になったとはとても思えない。そんなわきゃなくて、むしろ光を、手を伸ばすべきは、いまなお《だめ人間のまま》研修医を、血液内科医を勤めている若い人たちだ。この件は(そもそもおれのところに話が来(るはずも)ないが)対話も論証も介在する余地がない。

第2章:血液内科医(1) - セカンド・オピニオン(船橋海神) - カクヨム

シロクマは白々しく高みから論じた風を演じていないで、「自分はこんなふうにかつてだめ研修医だった」というエピソードをどんがらがっちゃん週次で開ちんちんすべきである。他に道はない。お前が自分の言説で見えなくしているんだ。ちんかすやろうめ。

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「復活の日」準備日記#0009 香川ゲーム条例 ねとらぼさん公開の原本をTorrent放流開始しました

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