全国数千万のごんぎつね研究者のみなさまおはようございます。
私はエウレカです。すごい発見をしました。鳥ランドのほうであらかたしゃべったのですが、こちらでも書かずにいられない。でも引用と最小限の補足にとどめます。
「ごんぎつね」いまさらっと流していて(また)(新たな)発見したんだけど、あれは村(=人)の側の物語ではなく、きつねの側の伝承なのね。《これは、わたしが小さいときに、村の茂兵(もへい)というおじいさんからきいたお話です。》わたし=きつね、だよ。それですべてが腑に落ちる。
— nekohanahime (@nekohanahime) 2020年5月9日
こんなご先祖さまがいたんだよって、茂平の先人とごんの末裔仲間のきつねに代々互いに語り継いで、いまに至る。読み手は《わたし》=新美南吉説を何の疑いもなくとってしまうけれど、どこにも書かれていない。《わたし》は終始、きつねの視点で物語についていく。「手ぶくろを買いに」とも整合するよね
— nekohanahime (@nekohanahime) 2020年5月9日
《わたし》=人だと取って疑わない感覚こそ、南吉が抱いた共生の理念から再照射が必要と思った次第です。てか、《わたし》=子ぎつねです。親ぎつねでも構わないけれど、きつねです。
— nekohanahime (@nekohanahime) 2020年5月9日
「引用と最小限の補足にとどめます」と書いたのは、魔法にかけられたと思ってこの視点で通しで読んでみてほしいから。破綻がない。もちろん、南吉は《わたし》=ヒトの語り手である立場を無意識に選んだとは思います。でもだから《わたし》=ヒトと決まったわけじゃない。
「ごんぎつね」は、きつね世界に伝わる尊い伝承です。ほんとに。破綻がないから。ほかに読みようがない。
「手ぶくろを買いに」も、同じ軌にある、きつね世界の伝承です。こちらは、疑う人はより少ないよね。
エウレカ追記
茂兵の兵は、兵十の兵です。茂兵の村では、代々、子きつねにごんの物語を聞かせる神職があることになります。[訂]
— nekohanahime (@nekohanahime) 2020年5月9日
この命名は、明らかに作者の意図です。