当たったことがないエリザベス女王杯。当たる気がしない。
これはサインだ。1-2, 1-9, 2-9, 2-11, 9-11, 9-12 で。(んで1-11が来る。あるあるw)
— nekohanahime (@nekohanahime) November 10, 2018
これはダマしで、来ない。
- 枠4-6, 4-7, 6-7。
これもダマしで、来るのは横山典w
当たったことがないエリザベス女王杯。当たる気がしない。
これはサインだ。1-2, 1-9, 2-9, 2-11, 9-11, 9-12 で。(んで1-11が来る。あるあるw)
— nekohanahime (@nekohanahime) November 10, 2018
これはダマしで、来ない。
これもダマしで、来るのは横山典w
数日前におれは願望した。
いま、小川榮太郎に許された失地回復がふたつある。ひとつはヌード写真集を出すこと。もうひとつは「コント竹田君と小川君」で漫才コンテストに勝ち抜くことだ。東スポが営業に来た小川の写真を掲載する。ソフマップでもいい。
— nekohanahime (@nekohanahime) November 7, 2018
いま、小川榮太郎に許された失地回復がふたつある。ひとつはヌード写真集を出すこと。もうひとつは「コント竹田君と小川君」で漫才コンテストに勝ち抜くことだ。東スポが営業に来た小川の写真を掲載する。ソフマップでもいい。
事態の推移は予想を超えていた。
今日はま小川榮太郎さん(本物)が新宿2丁目にご来訪!
— 冨田格(いたる) (@itaru1964) November 9, 2018
(マジで)緊張しながら一緒に写っていただきました。 pic.twitter.com/YxBiz5wCqC
緊張する必要なんてないw
【日録】昨晩は松浦大悟さんの御誘いで新宿2丁目へ。妻に「新宿3丁目に行くんだぜ!」と言ったら、「それは駅名だよ」と軽くいなされたが、大変愉しい時間を過ごした。深い議論、また政治的な議論も重ねたが、それだけではない。美しい時間であった。そして私はどんな事よりも美しい時間を愛する。 pic.twitter.com/rNGxZYvpya
— 小川榮太郎 (@ogawaeitaro) November 10, 2018
松浦大悟サイドに政治利用されるのが関の山だとは思うが、それで人権と相互理解が広がるならそのほうがいい。
小林秀雄は小林秀雄だからあれで許されたというか、周りも諦めて晩年を見送った。
小川榮太郎は小川榮太郎に過ぎないのだから、どうでもいい寄稿なんてやめにして、これからも夜な夜な新宿に繰り出し、ひとりでも多くの知己を集めたらいい。よもや小川が消すことはないと思うが、おれは慎重なので、写真をコピペさせていただく。
いい笑顔だ。あんなくだらないものを書くまで、さぞかし孤独で貧しかったのだろうと思う。安倍晋三礼讃に転じてしばらく経って、もう飽きただろう。これからは失った空白を埋めるが如く、2丁目で文芸修行をやり直したらいい。小川に文芸評論は向いていない。本人だってとうに判っていたから安倍礼讃の道を選んだ。
*
ときに、冨田格さんが杉田水脈をおもてなしできるようにアレンジする議員のひとりくらいはいるだろう。期待したい。
杉田水脈と小川榮太郎の謝罪ペアヌード写真の全国紙掲載を待ち望む者である!
— nekohanahime (@nekohanahime) November 10, 2018
愛は3年で尽きるだとか
絶やさぬ努力をだとか
*
おれもおまえたちも
「いままでひょっとして何かの勘違いをしていた」
そう思い知り
悔い改める日がきっと来るだろう
*
「どこへ行くの」「いつ帰ってくるの」
女はそう尋ねたかも知れない
*
尋ねなければ
その素振りを見せなければ
おれは帰ってくるのに
それ以外の選択肢が
はなからあるわけないのに
*
ねこよ
おれのくーちゃんさま
*
小泉今日子の最も美しい発声域を引き出した曲、その初期は「魔女」でしょう。そして円熟期(あるいはカムバック賞)には「優しい雨」がふさわしい。異論はないと思うが念のため申し添えておけば異論は認められない。
しかしその「優しい雨」のオリジナルはと問われたら、答えられない向きが多いのではなかろうか。
鈴木祥子である。
私は以前に野田幹子の偉大をさり気なく場に差し出しておいた。
別段といえるほどの反響はなかった。むろんコメントを寄せてくださった識者各位には心から感謝している。私が野田幹子に救われたのと同じころ、救ってくれたのが鈴木祥子である。
彼女の「Long long way home」が世に出たころ、私は人生で初めての離人症のようなものを発症していた。17歳になるかならないかの年端だった。本能的に救いを求めてCDショップを散策し、FM、AM、かなりの音楽番組に耳を寄せ、熱心なリスナーになった。そのいくつかが私の内なる孤独に親(ちか)しいものを感じさせてくれた。鈴木祥子は覿面に効いた。ここにあらためて礼を述べたい。
*
四半世紀が過ぎて、いま思うのは、歌謡曲、その流れて耳からひたひたと浸透してくる歌詞を大切にしたい、大切にしてよかったということである。というのは昨日きょうと「焼き鳥エイト」に営業で入っていて、あそこはあれなのな(何がだ)、大黒摩季、槇原敬之、云々を、明るい店内に流すのな。感心した。心が洗われた。レバーと鶏ももをキャベツにくるんでつまみながら、おれは「80年代90年代(前半まで)の歌詞も捨てたもんじゃない」とひとり頷いていた。「おれが聞きたい話、ストーリーの類型はこれなのだ」と大黒摩季に思った。当時は大黒摩季など屁ほどに思っていた私だが、そうではなかったのである。上京した街でやるせないビートを抱える女の姿がそこにはあった。
*
どうして、「優しい雨」のようなストーリーが私たち歌詞から失われてしまったのだろうか。応援だとか頑張れだとかくそくらえである。つんくは一体どこで変節したのだ。秋元のことは書かない。いつかきっと刺し違えるのみ。私は、日頃むつかしいことをいっているようだが、「優しい雨」で十分なのである。
こんなに普通の毎日の中で
出会ってしまった二人
あなたについてゆく
はじまってしまったから
「てしまった」の二度受けが効いている。これを古語では気づきの詠嘆と呼ぶ。ちなみに気づきの詠嘆は「けり」だけではない。完了の助動詞「つ」「ぬ」は強意になると「てしまった」がぴったりくるので、これもやはり詠嘆に分類される。事態の進行のほうが早く、運ばれてしまい、気づいたら浅瀬を離れ後戻りできないところまで来ていた状況を指す。
(おれも一度は「てしまった」で恋を受けられてみたいものだ)
これを夫唱婦随の内面化ととらえる向きもあるいはあるかも知れぬ。うるせえ馬鹿野郎である。ヘミニストだって恋に落ちようものを。いやわたくしはヘミニストとして決して恋には落ちませぬという思想態度はこれはありで、まあ、とりあえずおれに石を投げておけ。恋に落ちたときの狼狽と転向が見ものだ。
*
追伸:
運命だなんて口にするのなら
抱きしめて連れ去ってよ
私の全てに目をそらさないで
諸君、このような女の論法に屈してはならない。
*
小泉今日子はデビュー当初からフラットが下手な様子だとは「明星」「平凡」その他で指摘されていた。
たしかに鈴木祥子のオリジナルを聞くとその思いがせぬでもない。だが、キョンキョンのこれは十分にありだ。この中途半端なベルベットの低音は「魔女」の延長にある。そして(ここ大事な)むしろ鈴木祥子に比べてより多くの揺らめきを誘発させる。おれはこういう歌詞と楽曲に触れていたいのである。
もう彼のことは忘れてしまえよ。
(中略)
ただ週末のわずかな彼との時を
つなぎ合わせて
君は生きてる。
息が詰まるほど
人並みに押されて
週末電車でアパートへ帰る。
まだ君は若く
その頬の涙
乾かせる誰かがこの町のどこかで
君のことを待ち続けている。
浜田省吾「もうひとつの土曜日」
*
すみません、歌詞の並びは思い出すまま、適当です。
3周くらいまわって、ほんとにいい歌詞だと思うんですけど、75周くらいすると、この歌い手は肝心のことがわかってないことに気づきます。一般には気づくのがもうちょっと早いかな?
*
彼女(「君」)は、週末のわずかなカレーとの時間だけで残りの5日なり6日なりを生きていけるんですね。生きていけないんじゃないかと勘ぐる/そこに賭けてみたくなるのは歌い手(だけ)です。その身勝手さと紙一重の一途さが若さゆえ、ではありますが。
*
僕は朝6時に船橋を出て、材木寄せ場で7時から働いています。19時に家に這い着きます。その間、思っているのはくーちゃんのことです。朝と晩と夜半の僅かな時をつなぎ合わせて僕は生きている。それはくーちゃんが僕を待っていてくれるからです。待っていてくれると信じることができる。彼女(「君」)だっておそらく同じ仕組みでしょう。
*
それは十分に、満ち足りた幸せではありませんか。
*
野暮を絵に描いたような浜省の歌詞は、しかし誰しもいちどはかかる麻疹のようなもの。
*
今回76周めで、私はみなさんに伝えたいことがある。
これ、「君」を待ち続けているのは雄猫かもしれない。そうして再び上に目を遣って歌詞を眺めてみる。悪くないシーンだと思いませんか。
*
斯くして今回の私のテーゼ:「もうひとつの土曜日」の歌い手は、猫(雄)であった。
私の下の名前の由来には長い間謎があり、名付け親の言い分として森敦説(「月山」=父親)と中島敦説(「山月記」=母方の爺さん)があって、まあどちらにせよ立派な作家なのだが(けふんけふん)、おれは森敦じゃないかとずっと思ってきた。洗脳されてきたといってもいいだろう。
*
森敦「月山」がちょうどおれの生まれた時期の芥川賞だったからで、「月山」こそ現代芥川賞を象徴するにふさわしい作品であることは論を俟たず、あさま山荘で挫折を味わった父親が文学書にのめり込んでいた時期にも一致する。まあ父親を擁護するのは反吐が出るほど嫌ではあるが、イデオロギーとは別の次元であやつの本を見る目は確かだった。字が下手くそで、母方は達筆なので(爺さん-母親-俺)、おれはそのハイブリッドの矛盾にいまだに苦しむ。くそう。
*
んで何気なくウェブを渉猟していたら爺さんとこの足利の家と中島敦のところの家のつながりが見えてしまったのである。
中島撫山―綽軒ときて、
____|-竦-敦
だ。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000135513
敦は「山月記」の中島敦である。竦はその父ちゃん。綽軒(?-1906)は竦の兄で、栃木県南の大平山あたりに私塾「明誼学舎」を開いた。爺さん(1921-199x)は桐生だか赤城山麓だかの生まれで足利に育ち、
大平山に通って漢学の先生に習った
と、生前ずっと以前に聞かされていた。足利時代の前後―といっても数十年のスパンがあるが―に、山本有三(愚作)、相田みつを(もう大概にしてほしい)、檀一雄(任侠)がいる。
*
綽軒(?-1906)、つまり中島敦の伯父と、大正10年(1921)生まれの爺さんに、直接の接点はない。ここからは調べてみないことには判らないが、爺さんのいうことが正しければ、おそらく、明誼学舎の後継舎か、その教育を受けた漢学者が、昭和10年頃まで(例えば、1890年生まれ、1940年没、くらいで)岩舟(「秒速5センチメートル」)、大平山、栃木、足利で教えを講じていた可能性はある。爺さんはそのMr. Xに習った。
*
うちの爺さん方の足利の家にはなぜか埼玉の久喜に縁があり、後に結婚する婆さんの家も巻き込むような形で、何かとあの辺りとは人の出入りがあった。そのことをずっと不思議に思っていた。久喜は中島敦の爺さん、撫山先生の本拠である。何かしらのつながりがあった可能性は考えられる。
*
ほかにもちょっと書けないのだけれど、久喜市の発行している、ウェブで手に入る撫山先生関連の資料を拝読するに、遠い昔を呼び起こさせる固有名詞が次々に出てくる。撫山先生、小さい頃のおれに馴染みのある県下、たとえば古峯神社、出流山、戸奈良村(佐野)、宇都宮…に足をお運びになっている。人名や家の名前は書けないが、ははあんと。
*
おれの爺さんは青年期の進路選択でいちばん肝心な時期を戦争で棒に振り、漢学者としては大成しなかった。戦後の肩書は傷痍軍人だ。いまでは地元でもだれも名を知る人はいない。
その爺さん(ほにゃらら善次郎)が「安田善次郎と(なんとか)ヤス次郎…にあやかろうとして、金持ちになるようにと親が安田のほう(下の名前)を選んだと聞かされている」とたまに思い出したように話していた。安田善次郎はわかる。
天秤にかけられた、なんとかヤス次郎…が長いことわからなかった。(なんとか)はおれの注釈だ。歴史辞典に出てこないので知らん。数えるほどしか聞いていないはずだ。(だが私は覚えている)
ついさっき知った。中島綽軒、本名靖/靖次郎、であった。
*
おれはいま猛烈に感動している。爺さんが親父に負けるはずがない。表向き、森敦の顔を立てつつ、中島家への恩義を託してくれたのだとしたら、おれはなんというか、冥利に尽きる。
憶測の域を出ないが、ここに書けないことも含めて、符合しすぎている。諸君、今回のおれはガチだ。爺さんは、中島敦を知って/見聞きしていた。中島敦本人でないにせよ、その親族に、栃木県南か、埼玉久喜か、大陸(大連か?)で会っていた可能性は、捨てたくない。
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山に帰臥し、人と交りを絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦躁に駆られて来た。
*
袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。
成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがあるのではないか、と。
*
私は長い「山月記」読書(暗唱?)遍歴において、「山月記」にはひとつ大きな謎があると思ってきました。それはこの「何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところ」です。山月記は噛み溜まりのほとんど残らない作品です。その山月記にあって作者が説明を意図的にか意図せざるにおいてか省いた箇所がある。それがこれ「何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところ」であります。
*
よくわからない。なぜ、李徴は第一流になり得なかったのか。そこがこの虎作品の根源的なモチーフであるにもかかわらず、理由を言葉では表現する一方、実質を掘り当ててはいない。例の「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」ではない。それらは、李徴が詩作に耽り妻子を捨てた虎になった個人史上の弁明です。何か取り調べを受けた内面説明の切なさ、届かなさを思わせる。
*
私が知りたいのはそこではない。
*
李徴はなぜ第一流になれなかったのか。そしてなぜ、袁傪はそれを直観したのか。それらのことは詩作技術によってのみ明らかにされるべきでしょう。李徴が破綻した人格の持ち主であれ彼の努力は正当に褒められてよい。中島敦もそのことを認めている。だから山月記を残して供養したのです。
*
私はかつて、それは(A)宮仕えや妻子や、つまり生活を捨ててまで詩作にふける「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」だと思ってきました。そんな性根だからろくな作品が書けない。違いますね。むしろ、(B)虎になってまでもたもた人語を話し、友を襲わざるかの寸でで「危ないところだった」と感懐を漏らすような中途半端だから、第一流になりえないのです。
*
突き抜けるには何かの本質的本格的な狂気が必要なのでしょう。
*
先程私は「供養」と記しました。
時に、残月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖を嘆じた。
山月記の完璧はここにあります。
「時に、残月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖を嘆じた。李徴の声は再び続ける」初めて読んで以来30年ずっと思っていますが史上最高のナレーションです。非の打ちどころがない。これを書きたいんだ。
— nekohanahime (@nekohanahime) May 19, 2018
そしてこれには伏線があります。
袁傪はじめ一行は、息をのんで、叢中の声の語る不思議に聞入っていた。声は続けて言う。
袁傪の部下はとてもよく統率がとれているんですね。闇夜、虚空の虎を前にして取り乱すところがない。そして我々読者は、いつしか、袁傪の一行になっている。
*
私は虎にすらなり得ず、しかしそのことを身の丈に合った僥倖であると感じています。袁傪には「何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところ」を直観しつつ、それにとらわれずに部隊を率い、実務をこなし、処世する能力がある。李徴はもはや気づくまいが、袁傪は李徴の最大の理解者であり、最良の批評者だったでしょう。あるいは、もしそうであるならば、(C)李徴ではなく袁傪の生涯の先にこそ「何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところ」を踏み越え、乗り越える地点があるのかも知れない。
*
李徴はいまだに叢で吠えていることと思います。にゃーん。