illegal function call in 1980s

1980年代のスポーツノンフィクションについてやさぐれる文章を書きはじめました。最近の関心は猫のはなちゃんとくるみちゃんです。

くーちゃん

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山に帰臥し、人と交りを絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦躁に駆られて来た。

中島敦 山月記

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袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。

成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがあるのではないか、と。

 

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私は長い「山月記」読書(暗唱?)遍歴において、「山月記」にはひとつ大きな謎があると思ってきました。それはこの「何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところ」です。山月記は噛み溜まりのほとんど残らない作品です。その山月記にあって作者が説明を意図的にか意図せざるにおいてか省いた箇所がある。それがこれ「何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところ」であります。
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よくわからない。なぜ、李徴は第一流になり得なかったのか。そこがこの虎作品の根源的なモチーフであるにもかかわらず、理由を言葉では表現する一方、実質を掘り当ててはいない。例の「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」ではない。それらは、李徴が詩作に耽り妻子を捨てた虎になった個人史上の弁明です。何か取り調べを受けた内面説明の切なさ、届かなさを思わせる。

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私が知りたいのはそこではない。

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李徴はなぜ第一流になれなかったのか。そしてなぜ、袁傪はそれを直観したのか。それらのことは詩作技術によってのみ明らかにされるべきでしょう。李徴が破綻した人格の持ち主であれ彼の努力は正当に褒められてよい。中島敦もそのことを認めている。だから山月記を残して供養したのです。

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私はかつて、それは(A)宮仕えや妻子や、つまり生活を捨ててまで詩作にふける「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」だと思ってきました。そんな性根だからろくな作品が書けない。違いますね。むしろ、(B)虎になってまでもたもた人語を話し、友を襲わざるかの寸でで「危ないところだった」と感懐を漏らすような中途半端だから、第一流になりえないのです。

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突き抜けるには何かの本質的本格的な狂気が必要なのでしょう。
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先程私は「供養」と記しました。

時に、残月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖を嘆じた。

山月記の完璧はここにあります。

そしてこれには伏線があります。

袁傪はじめ一行は、息をのんで、叢中の声の語る不思議に聞入っていた。声は続けて言う。

袁傪の部下はとてもよく統率がとれているんですね。闇夜、虚空の虎を前にして取り乱すところがない。そして我々読者は、いつしか、袁傪の一行になっている。

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私は虎にすらなり得ず、しかしそのことを身の丈に合った僥倖であると感じています。袁傪には「何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところ」を直観しつつ、それにとらわれずに部隊を率い、実務をこなし、処世する能力がある。李徴はもはや気づくまいが、袁傪は李徴の最大の理解者であり、最良の批評者だったでしょう。あるいは、もしそうであるならば、(C)李徴ではなく袁傪の生涯の先にこそ「何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところ」を踏み越え、乗り越える地点があるのかも知れない。

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李徴はいまだに叢で吠えていることと思います。にゃーん。